学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

桜はパッと咲いて

2019-03-29 19:41:56 | 日記

大阪の桜の開花宣言は3月の27日であった。桜の開花の目安は3月27日であるという。な~んでだろぅ?“桜咲く=咲く3x9は27”だというのだ。なんという無茶な言葉遊びだろう。何故日本人は桜前線をやたら気にするのだろう。多分、マスコミの開花の喜びをあおる報道のせいだとは思うが、テレビで売れっ子のアメリカ人のジェイソンじゃないけれどWhy Japanese people…と叫んでみたくなる時がある。日本に“農事暦”というものがあることを知った。いつものように天気予報をテレビでみていると予報士さんがこの暦(こよみ)について話していた。昔から農業と天気そして暦というのはいつも一体で、田植えであれ野菜などの種つけであれ、そのタイミングをはかる目安としていたことは疑いの余地がない。これには納得である。気温や天候を気にしながら農業は営まれている。農事暦というものに無頓着では秋の収穫が期待できないということは農業に無知な僕にも容易に理解できる。
桜はパッと咲いてパッと散る。桜が人々を引きつける理由を考えてみた。短い桜の花の生き方に人間の生き方を重ね合わせることができるような気がしてくる。つまらないことに囚われずにその時々を大切に、桜の花のように悩みなどを引きずらず日々を暮らすという生きざまに魅力を感ずる時もある。Finish every day and be done with it. (毎日を完結して、それでおしまいとする=引きずらない)という英語を考えてみた。
さて、桜前線もさることながら、甲子園の高校野球の選抜大会が球春を告げる。日本ではセンバツ野球は春を告げる一大イベントである。高校生達がひとつのボールを追う必死でひたむきな姿は確かに見る人々に感動を与えてくれる。自分が高校生の頃のひたむきな姿を思い起こしてくれるのが高校野球である。
自分が高校生の時、何を考え、何を人生の目標にしていたのか。何に情熱を捧げていたのかを考えると、現在の自分の姿が見えてくる。TVの普及と共に当時の豊なアメリカに憧れた僕は英語の勉強にのめりこんでいった。英語の勉強は中学生のころから始めたのだから、もう60年も前のことだ。そんな時があったのだ。

思いつきや発見には外に出よう

2019-03-26 20:09:42 | 日記

外国人で賑わう大阪のミナミを探索した。理由は“間違い英語看板”を探してみようということで友人二人と出かけたのだ。戎橋の上では例のグリコの広告を背景にたくさんの観光客の人たちが両手を上にあげて広告と同じポーズをとって写真撮影をしているのだ。午前中の集合で11時に橋の上で待ち合わせをして目にした光景である。道頓堀通りではほとんど肩が触れ合うほどの人々の混み合い状態であちらこちらに行列が見られる。‘焼きタラバガニ’はカニの足を焼いたものでそれを食べながら街歩きを楽しむ人がたくさんいるという。‘たこ焼き’もなぜか食べなければならない大阪のグルメであるらしい。有名なラーメン店の前でも同じ長い列である。観光客のみなさんは周りの皆で並んで待ってからの食べ歩きが楽しいらしい。ただ問題は食べ物の残りかすや紙くずである。場所によっては電柱の陰に、家と家の間の隙間に、ゴミが捨てられていく。観光客の呼び込みとゴミ対策を真剣に考えないと町が大変なことになると気になった。
さて英語の話しだが、最近は随分と間違い英語が減ってきたのに気が付いた。やっぱりしっかりとした英語を作成して仕事にしているアメリカ人などがいるのではと思った。それでもよく調べてみると、店の看板メニューには ‘Grass Wine’ などというのがある。僕の友人がそれを見つけたので写真に撮った。グラス・ワインのgrass(草、マリファナ) とglass(グラス、ガラスのコップ) は間違ってはならないスペルミス。それが平気で堂々と通りの立て看板に書かれているのだ。
次に気付いたのが撮影禁止のポスターである。なぜ写真に収めてはいけないのだろうか。呼び込みの女性に聞いてみると「いや―いろいろありまして…」と返事がかえってきた。便利な日本語である。「いろいろ」という表現がすべてをあいまいにしてしまう。機会があれば街で見る日本語のあいまい表現を調べてみようと新しいアイディアが浮かんだことだ。
今日のプラス思考は“頭でいろいろ考えを巡らせているよりは外に出て何らかの発見を楽しもうStop thinking and go in for a walk.”ということにした。


成功者の熱情

2019-03-22 19:33:38 | 日記

大阪の水曜日の温度は19.4℃。晴れた空と暖かさに誘われて久しぶりに街歩きに出かけた。夕刻、帰宅して歩数計が10,000歩を超えた数字を示していて、運動した気になって気分も爽快である。出かけた先は東大阪市の「司馬遼太郎記念館」。駅から少し離れているので往復するとかなりの歩数になる。我が家から近くの近鉄奈良線の駅までも片道15分歩くので街歩きを含めてすべてを合算すると僕には健康的で良い運動である。
司馬遼太郎館へのアクセスは大阪の近鉄奈良線の小坂駅でそこから商店街や住宅地を歩くのであるが道すがらプランターに植えられた黄色い花をつけた菜の花が目立つ。司馬遼太郎の作品『菜の花の沖』が自然と頭に浮かぶ。膨大な資料と取組ながら書かれた司馬の歴史小説になぜか興奮を覚える。彼の小説を書くという作業への真剣で緻密な取り組み方に、資料館を訪れる人は司馬の仕事への姿勢に刺激されて人生での“学び”という意味を考えさせられるのだと思う。
司馬記念館で1時間程度過ごすと“勤勉は成功の親である”、“問うことが多い者は学ぶことが多い (We learn a lot from inquiries.)”などの格言が的を得ていることに気付かされ、私たちは不思議な刺激を経験する。なんといっても司馬の書棚に収まる6万冊と言われる膨大な圧倒される蔵書の世界である。高さ11メートルの壁面の書棚に収められた資料や著書を見上げているだけで人生を感じてしまうのだから不思議である。資料館などを訪れて何かを成し遂げた人の功績を辿るという人々の行為の理由は、成功者の熱情に感激とやる気などの刺激を受けて、無意識のうちに自分の人生を振り返る静かな時間を与えてくれるからではないのだろうか。
「あれもできたら」、「これもできていれば」などと欲をいうわれわれの人生で、本当に取り組んで一生を捧げることのできる事はたったひとつ。やっぱり人の一生は短いと言えるのかなぁ。  News of the day: え?うそ?ホント?! イチロー引退!Wow!

虹の端に夢がある

2019-03-19 19:43:13 | 日記

日本の全国各地の学校では卒業式がたけなわである。僕の孫も小学校と幼稚園を無事やりきって進級することになる。おじいちゃんとしては何ともいえない感慨である。赤ちゃんの時から育ち具合を常に気にしながら元気に大きくなっていく姿を見るうれしさは、必死に育てた自分の子供達よりももっと灌漑深いということをよく耳にする。
卒業式ではいろんな人たちが祝辞を述べる。教育に携わってきた僕は本当にたくさんの祝辞を学生に送ったし、またいろんな先生方の祝辞も聞いて心に残るものもあった。何も心に響かなかったものもある。そこで僕がが卒業の祝辞を述べるとしたら…考えてみた。
このブログは、本当の学びは学校の外にあるということで“学びのプラスあるふぁ”と名付けた。年齢にもよるが卒業生には「他人と比較すると碌なことがない」という事を話してあげたい。学校ではテストの成績などを中心に他人との比較をあまり深く考えずに受け入れてしまう。それが原因で自分の弱点ばかりを気にするようになり、他人との比較で自分はダメだと思い込んでしまう若者も多い。そんなことはない。「自分は自分、他人は他人」、自分の得意分野は必ずある。その得意分野に注目して自分を伸ばしていって欲しい。英語に次のようなものがある。
Try to stand tall! Step out of your fear, rainbow happens.(胸をはって立ち上がれ!恐怖が抜ければ虹が出る)
‘虹が出る’とはどういうことなのか。西洋には虹にまつわる古い逸話がいろいろ残っていて、“虹の端が土地に接する所に金(きん)がある”とか、“虹の端に人が見つけたいものがある”というのがある。アメリカ人のみならず日本人だって同じで、なぜか虹というものにある種の興奮を覚える。
卒業していく若者には他人との比較から脱して、自分の得意分野を真剣に考えてみてほしい。そして、得意分野をさらに努力して能力を磨き人生を切り開いていってほしい。きっと虹が目の前に現れて、身も心もスッキリと人生に立ち向かうことが出来ると思う。

人間観察

2019-03-15 18:36:45 | 日記

先日、駅のホームで電車を待っている時に、70歳前後の男性が盛んに手足を動かして体操をしている姿が目についた。迷惑な話で、周りにいる電車を待つ人達がその男性から少し距離をおいて奇異な目で見つめている光景に同年代の僕は何とも言えない寂しさを覚えたのである(一昔前は傘でゴルフのパターの真似をしている人が目についたものだ)。
歳をとってくると身体中の筋肉が堅く柔軟性に欠けてくる(頭の柔軟性にも同じことが言える…)とういう事実が気にかかるのである。目覚めと同時にベッドの上で腕や足を伸ばすと、足がつることが時々起るので筋肉の硬化に気付くのである。それで寝巻から服を着替えてから‘伸び’をしたり‘手足のストレッチ’をするように変えることで起床モードに切り替わる。腕を左右に大きく伸ばしたり、自分の好きなやり方で筋肉や肩が気持ちのいい程度にほぐす動きをするのである。一日を始めるのに最も簡単な気分昂揚の方法はこの深呼吸と腕や足のストレッチではないかと思う。英語にもTake a deep breathe, and stretch your arms and legs. という表現がある、ということはこの簡単な運動は世界共通の体操なのかもしれない。
平日の正午頃にモールに足を運んでみると、昼食と運動を兼ねてモールを歩きまわっている団塊の世代の人たちと出会う。それも一人や二人というレベルではなくて、注意して周りを見回せばかなりの数の人達である。みんな歳をとると考えることは同じなのだとつくづく思う。つまるところ“健康は大いなる財産である”ということに気付くのに随分と時間がかかったということなのかも。
人間観察(people watching)というのはいつまでも続けたいと最近は考えている。“人のふり見てわがふり直せ”と言う諺があるように自分を考える機会にもなるし、他人の観察から大きな意味で自分の生活や生き方、そして人間の生き様などに考えを広げていくこともできるのだ。できれば話しかけてなにかを学べるかもしれない。