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学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

答えのない質問:人は何故生きる?

2025-07-01 16:47:37 | 日記
 6月最終の金曜日、ついにこのブログを書けなかった。なぜ?もちろん理由がある。先週火曜日のブログをアップした後、一報が入った。奈良に住む孫(中学1年男子12才)が彼の住む家の近くの交差点で車にはねられた。意識不明の重体で病院に搬送されたというのだ。女房と一緒に急ぎタクシーをとばして病院へ…とにかく黙って必死に祈るしかないという経験をはじめてすることとなった。ベッドで目をとじるといろんなことが思い出されて涙が滲み出てくる。目を開いて呆然と空(くう)を見つめているという経験もはじめてだ。
 あれから早くも一週間、友達の皆さん、周りの人々の祈りと応援でなんとか心臓は動いている。ただ脳波の波がない。これを脳死というのだろうか。頭を強打して足は左が骨折しているけれど、内蔵はどこも傷んでいない、顔もどこにも傷はない、肋骨も一本も折れてはいない。「生きていればまだ何が起こるか分からない。肝っ玉かあさんだって何だってやってやる」と娘である彼の母親、長期介護の覚悟を決めた発言にまた涙。それでも皆で助け合って…と周りのわれわれも覚悟を決めた。人は何故生きる?数学のようにX=○といった一つだけの解答はない。答えのないこの質問が何度も頭をよぎる。急にブログが書けない。何故だろう?そろそろ’ブログ終い’の時がきたように思う。何年続けただろうか、まとめて本にして残しておこうと考えている。
        読者の皆さん、長い間お読みくださってありがとうございました。
               <nishikiyo0114@yahoo.co.jp>“ブログのお爺先生”

歩くこと:ここだけに居るよりは何処かに行けること

2025-06-24 17:07:31 | 日記
 以前にモールを足を鍛える場として利用している高齢者と話して、いたく納得したのを思い出した。いろんな店が並ぶモールという場は高齢者と呼ばれる範疇に入った者にとって、なんとなく世間の動きから取り残されたような日常の孤独感から解放される雰囲気を与えてくれる。歩くことによる健康維持と世間との接点を作る精神的な健康維持、これを一挙両得というものなのだなどと納得するだ。それにしても悪くないアイディアだとちょっと惹かれたりする。
 歩く運動で思い出したのがどこか近くというか遠くというか、にお住まいの老婦人、手押しの歩行補助車(シルバーカーと少し格好をつけて呼ぶらしい)を押しながら“老お犬様”を乗せて早朝散歩を励行している。気候が良くなって暑くなる前の早朝にまたこの日課を始められたらしい。一度話してからは冬に入って寒いので僕も早朝は外に出ないので出会うこともなくなっていた。つい先日またお目にかかってお元気でよかったと思いながら見送った。彼女は歩くのを鍛えているからか、やや腰は折れてはいるもの元気でよく喋る。ただ自分の年齢と子供の頃の運動会の話は一回の会話の中で何度も聞かされたのを思い出して話しかけなかったのだ。早朝5時半頃の起床、5、6分程度の簡単な早朝散歩はこの季節には本当にお勧めだ。朝イチの新鮮な空気、静まり返った町内の雰囲気、近くに見える生駒の山など、なぜかとてつもない重要な時間の得をしたように思わせてくれる。スピードはないけれどゆっくり歩いて前に進んでいる充実感がある。
 

「いやいや、しぶしぶ」を克服すれば面白くなる

2025-06-20 17:02:07 | 日記
 トイレが近くなった代わりに耳が遠くなってきた(ちょこっと大阪風ジョーク)…おまけに膝が痛いので最近はめっぽう街歩きをすることがなくなってしまった。大阪・関西万博に誘われたりするが、あの混雑や行列、暑さなどを考えると「無理!」とイヤイヤの首を振る。今日の予定などと書き出してはみるのだが、なんとなく億劫になってくるように感じ出した。
 「今日しようとおもっていることは本当にしたいこと?」と自分に聞いてみて、NO の答えが何日か続くようになってきたら要注意、明らかに体力、気力、エネルギーの減少を認めざるを得なくなっている。歳をとるということは“めでたい”どころか残酷なものだ。自分の意思の伝達方法が確立していない幼児が頭を横に振って嫌なことを伝える方法に“いやいやをする”という言葉がある。歳をとって物事が思うようにできなくなってきて、あの幼児のイヤイヤがよく分かるようになってきたなどと無理やり笑いをつくり出している。成長して小学生になっても、いやいや大人になってさえもこの反応が時々顔を出すと聞いた。イヤイヤが渋々(しぶしぶ)に言葉を変えるだけで嫌だと思いながら仕方なく物事を行うことが増えてくるというのだ。ピアノや勉強はイヤイヤしても成果は望めない。大人になってイヤイヤ、渋々、引き受ける仕事も増えてくる。英語に willingness(ウイリングネス=進んで何かをすること)という単語がある。心を入れ替えて自ら進んでという「気」を大切にしなければ…と意識しようと自分に言い聞かせている。

鏡は無言で語りかける

2025-06-17 16:21:09 | 日記
 女性の携帯用折りたたみの鏡が側溝に落ちていた。拾い上げて開いてみると中の鏡が激しく割れている。誰か女性が落としてそれを車か自転車が轢いたのでは、などと勝手な想像をしながら片付けた。ところで僕は娘が実家に残していった数個の同様の手鏡を何かの機会に便利して再利用させてもらっている。この種の鏡は目に入った細かいゴミやまつ毛などを取り除いたりするのに欠かせない。鏡で自分の顔を見ているとちょっとした思索に引き込まれることがある。
 「いやー、歳をとったなー、君、誰?」などと話しかけたくなる。鏡には年寄りの顔しか映らない。あの若かりし頃の顔はどこにいってしまったのか…などと年月を感じたりして思いもよらぬ笑いが生まれたりするのは面白いというか楽しい。人生とは鏡のようなもので自分が写したものがそのまま自分に返ってくる。人はなんだかんだと理由をつけて“偏見などない”などと主張したりすることもあるけれど、鏡が映し出すあるがままの姿のように、自分が見たいものを見、聴きたいものを聞いて、それから自分が信じたいものを信じて日々を暮らす。現役の頃、大学への車の運転中、サイドミラーやバックミラーを見て考えたことがある。前も後ろも頻繁に目をやって事故のないように注意するのが車の運転というものだ。他の車や周りの情景が毎秒毎秒通り過ぎていく。でも後ろにある車には時々注意しておかなければ何が起こるかわからない。そしてもちろん行き先は自分の目で前を見ていないと行き着けない。鏡が人生を教えてくれるような気がするのは不思議なことだ。

要注意!日常がテレビに支配されている

2025-06-13 16:25:27 | 日記
 なぜか早朝5時に目が覚めた。トイレに立ってもう一度寝ようと思ったのにまったく眠気がどこかへいってしまったように寝付けなくなってしまった。え~い、と気合を入れてベットを出る。外の空気は本当に新鮮だ。爽やかという言葉がピッタリだ。僕の1日は新聞を読むことから始まる。それからテレビの国際(世界)ニュース、膝上げ体操を5分ほど。
 今朝の新聞はインド航空機の墜落のニュースが一面だった。テレビも同じことだったが、この日のテレビの番組表を見ていて気がついた。今日はMLBのドジャース試合の放送がないことだ。もともと試合の予定がない日なのかも知れないけれど、MLB野球放送に関して気になっていることがある。午前中、ほとんどの人が仕事中で忙しい時間の放送だ。一体誰が見ているのだろうか。多分、プロ野球などの野球関係者のために放送されているのではと推察する以外に理由が見つからない。日本の代表的な選手達(大谷翔平、山本由伸、佐々木希)などが所属しているとは言えNHKがなんとなくド軍球団経営に加担しているような印象すら覚えて気になるのだ。
 テレビとはなんだろうと時々考える。動物や自然の記録映画などを見ていると学ぶことも多い一方で、コマーシャル、通販サイトなどなど消費社会に疲れを感じさせられることもある。「持てる者と持たざる者」を際立たせて、テレビに支配されている昨今の現状にウンザリすることも。膝の痛みにたえながら緑地の早朝公園散歩で自然や人間観察の方が健康的だとふと思った。