学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

アメリカでは本当に1日1個のハンバーガー

2024-06-21 16:53:22 | 日記
 今日の朝刊にチラシが7、8枚入っていた。その中の一枚、ハンバーガーの美味しそうな大きな写真をみながら思い出した。実をいうとこの種のチラシが入る度に僕は思い出すエピソードがある。現役の頃、自分の留学経験などを絡めながらアメリカ文化や社会問題などを講義していた頃の話だが、授業が終わって一人の学生が近づいてきた。私の父は「家族みんなで夕飯にマクドナルドを食べに行こう」という提案に、“そんなことをするのなら離婚だ”と父親が騒いだと笑いながらではあったが報告する学生がいた。(そうなの?離婚って案外簡単なんだ⁇⁇)
 僕は当時から今に至るまでハンバーガーは大好きで80歳を超えた現在でも月に一度は女房と昼食に食べに出かけることにしている。日本では特に手の込んだ料理を崇拝する文化があって、料理は愛情を表すといった信仰があるように思う。本当はアメリカにも同じような考えはあるのだが、アメリカではやはりハンバーガーがソールフードだと言えるだろう。“1日1個のバーガーは幸せの秘密である A burger a day is the secret to happiness.”といったキャッチコピーのようなことを言う人はたくさんいる。私はアメリカ人、最後の晩餐はハンバーガー、フレンチフライ(ポテト)、そしてコーラだと言った有名人もいるほどだ。そんなことはさておいて、奥さん、お母さんにたまには手抜きをさせてあげて、外食、マクド(大阪ではそう呼ぶ。東京ではマックと言うらしい)で家族団欒も楽しいよ、などと僕は言いたいけれど…たぶん大バッシングを受けるハメに陥るかな。後で皿洗いもしなくても済むし、それもええんちゃう?

“ステレオタイプ”という先入観

2024-06-18 16:15:16 | 日記
 女房に付き合ったスーパの肉売り場での会話。「うちは男の子が3人、とにかくガサガサ騒々しくて…」と若い二人の主婦の会話が耳に飛び込んできた。男3人と言うことで褒められているのか羨ましがられているのか、あるいは自慢しているのか、なんとなく微妙な会話に興味を惹かれたたがやっぱりその場を退散することとした。男の子とは…女の子は…といった男女類型化に関する会話は要注意なのだが、人はあまり気にもせずに話のネタにすることがあるように思う。
 “ステレオタイプ”という言葉があって、それは、多くの人に浸透している先入観、思い込み、固定観念、などレッテルを貼る傾向にあることを指すものである。なぜこんな傾向が人にはあるのだろう。よく耳にする話だが、例えば日本人は…中国人は…やれアメリカ人は…と類型化してしまうことでその国の人の行動のパターンが容易に予測できるからだと言われている。つまり対象となっている人々の行動を予測するのには便利な指針を与えてくれるのだ。ところがこれは人を語る上で要注意の最たるものなのだ。男の子、女の子、そして外国からの観光客など、十把一絡げ(じゅっぱひとからげ)に捉えることで、個々の人の特性などを無視していることになるからだ。人は皆、一人一人が持つ個性、ユニークさがあるはずだ、と気付かなければならない。
 ところで、僕の家は女の子ばかりの女子優勢家系、僕の弟の家族は逆に男ばかり、なんと孫まで男子三人だ。なんでそんなにはっきりと女系男系で分かれるの?こっちの方が興味がある。

若い時の苦労は買ってでも

2024-06-14 16:02:10 | 日記
 テレビで野球をみているとレギュラーと言われる人たちの動きがなぜか惰性の繰り返しのように見える時がある。みんなそれぞれ自分のプレーに努力しているのだろうけれど。そんな中、新人の若者が活躍するたびに感じることがある。囲碁や将棋の若者の活躍は爽やかさを感じさせるものがあるなかで、スポーツなどでは躍動感が観るものに元気を運んでくれるように思うのだ。
 年寄り仲間に昔の若い時代に戻りたいかと聞けばほとんどの人が特にそうは思はないと言う。「若いことはいいことだなー」と若さを讃美する一方で、もう一度あの時代に帰りたいとは誰も思っていないようなのだ。それぞれの境遇の中で必死に頑張った苦労、厳しさ、“しんどさ”を皆が知っているからだろうか。人生経験は貧弱でいわゆる“青い”と言われる青春とは「心の若さ」である」などと言ったのは「若さ」という詩で有名なサミュエル・ウルマンと日本の松下幸之助氏である。そうだあの頃、もう半世紀以上も昔に吉田松陰や渋沢栄一が言うように、僕は「夢なきものに成功なし」などと鼓舞されてアメリカ留学などと情熱を注いだ頃を思い出す。「若い時の苦労は買ってでもするべきだ」と教えられたこともある。若い時の苦労とはお金を払ってでも買いに行くだけの価値がある、と言う意味だ。具体像の見えない成功を夢見た頃が懐かしい。今、歳をとって思うこと、それは「人は学ぶのをやめた時から老い始める。学び続ける者は若いままだ」と言ったアメリカの自動車王、ヘンリー・フォードの名言だ。

人の一生と沙羅双樹(サラソウジュ)の花の色

2024-06-11 16:29:54 | 日記
 我が家のサフィニア、今年も深くて明るい紫の花を咲かしている。一年草とばかり思っていたのにもう3年目である。冬の間には枯れてしまったと思わせる姿を見せていたのに、また復活、すごい生命力に頭がさがる。おりしも時を同じくして、儚く落ちる沙羅双樹の花、京都の妙心寺東林院の苔の庭に落ちた白い花を愛しむ会が催されているという。あの平家物語の「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことわり)あり」の花である。朝に咲いて夕刻には散ってしまう儚いけれど美しい椿の花だ。ご存じ朝顔の花、散りはしないけれど朝に咲いて昼ごろには閉じる。我が家の裏庭の月見草も黄色い小さな花を夕方から開いて朝には閉じてしまうのだ。
 花の命が短くて…は林芙美子の残した言葉、ところがこの話には前後があって、内容は単に儚いことを悲しんでいるだけではないという。“生きている幸せは、あなたも知っている、私も知っている、花の命は短くて苦しきことのみ多かれど、風も吹くなり、雲も光るなり”と前後にあって、人生いろいろあるけれど、いろんな花が咲くこの世の中に「生」を受けたことはやはり幸せなことなのだ、という彼女の本意が隠されているらしい。植物は、そして花というものは人間のように生まれて一生を終えて死を迎えるというのではなく、枯れて死に絶えても個体全体としては生き続けるのである。僕のサフィニアを見ていてそう思う。そう言えば人の死も周りの人の心の中に生き続ける、そんな生き方をしたいものだとふと思った。

大空に境界や限界はない

2024-06-07 16:28:43 | 日記
 最近の早朝のように空が澄んで雲ひとつない日は別として、公園の日陰のベンチなどで横になってじっと空の雲を見つめている人は案外たくさんいることに気がついた。皆さんどんな思いにふけっておられるのか想像するのもおもしろい。そんなことを考えていると、ときどき空を見上げて雲の動きを追うことを提案したい。雲はとにかくじっと止まることがなく常に動きながら姿を変える。うさぎに見えていた雲の塊はいつの間にか狼の顔に変わっている。そんな雲の動きを追って一度ゆっくりと空を見上げる時間をお勧めしたい。雲が刻々と姿を変えて10分後にはどのような形に変わっているかを想像してみる、そんな空想や物思いの時間をもってみるのもこのご時世には必要かも知れない。
 あの理論物理学者のアインシュタイン氏が言うのだから不思議な気がするが、なにかの発明や発見には想像力が必要で、それは研究などを前向きにさせるという。納得できるような気もするが科学者は理論を詰めて何かの結果に結びつく発見や発明をするのではないかという先入観が一般人の我々にはあるとも思うのだが…。「想像力は知識に勝る。知識には限りがある」と彼は言う。理論とはA~Zのように区切りがあるけれど想像力はありとあらゆる方向へ人を導いてくれるという。例えば、人は飛べないと信じてしまえばそこで可能性が終わりを告げる。そう、現実の世界には限りがあり、想像の世界には限界という終わりがない。そんなことを考えながら空を見上げていると、確かに”ひらめき”のような何かを感じる時がある。脳とは不思議な存在だなぁ。