学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

挑戦、やって見ろよ!

2021-03-30 16:42:37 | 日記
近くの小学校の横を通ったら塀際の桜がほぼ満開、今年もまた卒業と入学の季節がやってきた。時にはだらだらと長いだけの来賓の式辞に辟易しながら座っていた式場のことを思い出す。式次第もコロナで今年は簡素化されたものになっているのだろうか。大学はじめ沢山の卒業式と入学式に列席してきたがどちらの式にしても新しい世界へ出発する人にとっての入り口だ。社会人の世界へ足を踏み出す青年達や初々しい新入学生を前に僕ならどんな式辞を述べるだろうかといつも考えながら座っていた。僕なら式辞のテーマは”挑戦”だ。「挑戦すれば失敗も成功もある。でも挑戦しなければ成功はない」僕が半世紀以上も前にアメリカ留学から学んだ絶対的な信念である。挑戦するから成功という喜びを味わうことができる。何事もやってみなければ分からない。
挑戦にあたる英語表現は沢山ある。その中でも僕がアメリカにいる時に何度も耳にした英語は 『Give it a try! やって見ろよ!』である。平易な単語で表現されるこの言葉は耳に心地よいと僕は思う。挑戦とは今まで自分がやったことのないことや未知の世界へ挑むことを意味する。何をそんなにいきり立つているのか?何もわざわざしんどいことに手を出さなくても、と言う大人は多い。安全策を狙うのが大人だ。自分がした失敗を味わって欲しくないと大人は言う。彼らもまた挑戦心旺盛な頃に大人から失敗をとがめられていつしか自己否定を味わった人達だと僕は思っている。挑戦して思うようにことが運ばなかった時は、我慢、研究や工夫、というものを学ぶ。自己否定でスタートからいきなり諦めた人は辛抱や研究心を養うことを学ぶことはない。考えたり工夫することを学ぶ機会を逸することで挑戦の後にくる成功の喜びを味わう機会も同時に逸することになる。卒業式に出席した人達、そして入学式に出席しようとしている子供や青年たち、それぞれの新しい出発の時にこれから先の挑戦に値するものを探す旅が始まったことを肝に銘じて学びを始めて欲しいと思う。歳をとった僕だって同じ、加齢とともに未知の世界へボケ(?)ないように学びに貪欲であり続けたいと考えている。さあ新年度の始まりだ。

片付けは体操?

2021-03-26 16:38:32 | 日記
10日ほど前に桜の開花で騒いでいたらもうあちこちで満開の知らせが。今日の最高温度も20度に近づくという天気予報にいよいよ春を通り越して夏の兆しが、などと気の早いことを考えるような温度になってきた。周りが暖かくなると外に出て、などと言うようなことはコロナで控えるとしても、屋内で相撲だの高校野球だのとテレビに子守をされているうちは体力はつかない。なんとか運動をと今年もやっぱり断捨離や部屋の片付けに取り掛かることにした。
生活オーガナイザー(Clutter Organizer)と呼ばれる人が最近は大活躍していて、部屋の片付けや断捨離、整理整頓は人生を変える、などと僕をけしかける。彼らの主張に耳を傾けると、「収納するなら捨てなさい」「いつか使うかもしれないという“いつか”は永遠に来ない」などというものだ。僕にはかなりの焦りを覚えさせるのがこの二つの提言だ。収納という言葉はよく考えてみると使わないのにいろんな物(時にはガラクタ)をとりあえず移動するだけで保管の場所を変えているだけに過ぎない時が多々あるのだ。確かに整理整頓されて部屋の中はすっきりと気持ちよく風通しも良くなる。しかしあのガラクタどもはまだ家のどこかに居座っているのである。もう一つ、僕にはそれほど当てはまらないと考えているものの時々顔を出す“いつか”は厄介な言葉で、学術書や専門書以外のいつかまた読むと保存した新書版や文庫本などはいつもほとんど読むことはない。「いつかまた会いましょう」という約束(?)をする人の約束は実現可能性の一番弱い約束だ。『ガラクタを捨てれば自分が見える』をはじめたくさんの著書があるので詳しくは紹介しないがカレン・キングストン氏は “「いつか」は散らかりの最良の友(Later is the best friend of clutter.)”という名言を考えた。多分、いつか後で片付けしようという弁解に支配される「片付けベタ」の人への戒めなのだろう。とにかく、片付けから家具の配置換え、整理整頓は僕にとっては体に良い体操、とはいえやっぱり腰が痛くなる、トホホ〜。

いつか来た道行く道

2021-03-23 19:26:57 | 日記
先週の土曜日は1日中大雨の予想だった天気予報、見事に外れて快晴の下、お彼岸の墓参りを済ませた。時々見かける子供連れの家族の墓参の様子が親の子供への躾のあり方を考えさせてくれる。墓石の間を走り回る子供が必ずいる中で、「お墓は隠れんぼをする場所ではない」と注意する親がいるかと思えば頭ごなしに「コラ!アホ」を連発して走り回ってはいけない理由も言わずに怒鳴っている親を見かけることもあった。そういえば、ノロノロと墓地へのアプローチの道をいく老人に迷惑そうに舌打ちをして横をすり抜けていく人も見たこともある。急いでいるのだろうが思いやりがない態度をもろに出す人もいる。お墓参りに限らず街中至る所で見かける光景だ。僕がいつも思い出す慣用句は「子供叱るな来た道だ。年寄り笑うな行く道だ」というものだ。子供や年寄りへの対応はちょっと一呼吸をすることで相手も自分も傷つけずに済ますことができる。最近はあまり耳にすることがなくなったTPO(time-place-occation)という言葉、時と場所、そして状況や機会に注意することで社会生活はずいぶんと円滑に流れるようになる。子供にはそんなことを考えながら教えていくことが大切だ。お年寄りにはちょっとした思いやりでことが済む。僕自身も年寄りのカテゴリーに入っているのに、自分ではその意識が全くない。僕の中では年寄りとは85歳を超えた人(?)などと考えるとまだまだ先があると思えるからか。
ところで墓参りの目的とはなんだろう。僕は自分の存在を可能にしたご先祖のことに思いを馳せながら僕の家族の報告ついでに少々お願いをしたりすることにしている。ものの本によればご先祖の成仏と家族の状況報告が主目的で、お願いをすることは本来の墓参の意味ではない、などと記されている。堅苦しいことは言わずに自分流に自分の心の浄化を図れば良いと僕は考えたりしている。家に帰って仏壇に花を添え手を合わせ一息ついて「最初の呼吸が死の始まりなり」などと昔読んだ本のことをふと思い出してはまた余計なことに思いを巡らせていた。煩悩に満ちた頭を無にするのはなかなかできないことだなぁ。

「カメラ公望」とは

2021-03-19 16:58:42 | 日記
春が来た!昨日はポカポカ陽気に誘われて8000歩、大阪城北(しろきた)公園まで出かけた。マスク装着が徹底されて街ゆく人はたとえ知り合いでも判らないのでは、などと余計なことを考えていたらすれ違いに軽く会釈した女性がいた。単に「横をすり抜けて失礼します」ということだろうと思うが、“(川柳)マスク越し会釈した人どなたかな” と振り返って確認してしまった。
場所によっては公園はお年寄りの数が鳩の数より多いなどと自嘲気味にいう老人の話をテレビで見たのでそれも確かめたくて出かけてみたのだ。確かに老人は目立ったが昨日は平日、思うほどの数の人を見かけることもなかった。子育て中の若いママが子供と遊ぶ光景も見られて平和なひと時がそこにあった。公園内の歩道のレンガの間に伸びだした雑草をコツコツと独りで抜いている公園管理の職員さんだろうか、背に太陽を浴びて余計に春が強調されているように感じた。城北公園は大きな池と噴水、そして花が特徴であると聞いていた。まだ、桜もあと一歩、今にも弾けそうな蕾が印象的だった。池に突き出た島のように見える小半島にカメラを向ける老人三人を見つけた。こんもりと茂った小山の中に白サギが住んでいるのかその鳥を撮影するために重装備の望遠レンズ付きのカメラを三脚につけ、じっと時を待っているという。「釣り人よりも悠長な鳥を待つカメラマン」というような冗談をそのうちの一人が笑って言った。彼らカメラマンの悠長さを釣り人ともじっているのに後で気づいた。釣りの好きな人を「太公望」という。この場合は「カメラ公望?」ということか。中国のことわざに“一生幸せでいたかったら釣りを覚えなさい”というのがあるのを知っている。“釣り人は山川草木の一部たるべし”などと本当の幸せは自然に溶けこむ楽しさだという。また世間の騒音から逃れて「独り」を楽しむという意味もあるのかもしれない。うまく表現できない“学び” があったように思った。僕はやっぱり「永遠に生きるかのように学べ」というガンジーの言葉が好きで大切にしている。どちらも長生きの秘訣なのかな。

おっちょこちょい

2021-03-16 17:21:44 | 日記
“おっちょこちょい”は大阪弁(?)などと思っていたられっきとした日本語。手元の国語辞典には「(俗)落ち着きが無く、軽々しいこと。またそう言う人」とある。要するにちょこちょこ動いて軽率なことであるが、そんな子は学校では楽しい子で人気者に多かったような記憶がある。
土曜日、久しぶりの外出の帰路、駅の自動改札機の前で何が嬉しかったのか大喜びの3才ぐらいの男の子、「やったー」と叫んでくるくる回り始めた。喜びを体で表すというのはこのことだ。そばを通り過ぎた僕の後ろで不意に泣声が。何があったのだろうと振り返ったら目を回したのかひっくり返って僕が通り過ぎたばかりの自動改札機にぶつかったらしい。鼻を押さえて痛がっている。ママらしい女性が「もう、おっちょこちょいやなー、アホ」と駆け寄って慰めていた。「アホ」が余計なのだが大阪人の常、ま、いいか。大ごとにならなくてよかった。
さてそれから、駅で電車を待っていたら中学生の男子二人、「俺、なんでか知らんけどまたマイナスつけ忘れてペケ。二回目やで。計算は合ってるのに」と悔しそうな一人。どうやら数学の試験結果の話し。可哀想に僕もそんなことがあったっけ、と昔を懐かしんでいたらもう一人が「それはおちょこちょいて言うんや」とツッコミをやっている。これも大阪人、ま、いいか。
おっちょこちょいも「二度あることは三度ある」、翌日、今度はとうとう僕の番。大事なアメリカ旅行の写真を全て削除してしまった。気候も活動しやすい春の兆し、そろそろ本格的に街歩きに少し芸術的(?)写真をと考えて、僕の大事な一眼レフのカメラ機能を再確認していての悲劇である。覆水盆に返らず、いくら天を仰いでも取扱説明書には「一度削除した画像は復元されません」とつれない最後通告だ。「ちくしょう、なんと言う不注意。このおっちょこちょいが」、3度目のおっちょこちょいの言葉が僕に降りかかってくるとは考えてもみなかった。英語にも scatterbrain という単語があって、いろんなことに脳(brain)が反応、散乱(scatter)して注意散漫ということになるのかな。僕の場合はデジタル系の機器を失敗を恐れておどおどしながら扱うことに問題がある。とは言え、写真消滅は、ま、いいか、では済まされない。悔しい〜。