学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

「亀」は最高の教師

2022-10-28 16:43:10 | 日記
 近所で家の解体が始まった。家というものはなんとたくさんの埃(?)を溜め込んでいるのか、と考えさせらた。解体業者はちゃんと水を撒きながら家を破壊していくのだが、それでも埃を抑えることはできない。どうしても風に乗って埃が霧散、僕の車も含めて近くの家の車のフロントガラスにうっすらと埃の層ができている。これは仕方がない。「お互い様。また自分も将来的に同じ迷惑をかけるかもしれない」共同体というのはそういうものだ。
 解体作業を見ていて感じたことがある。最近よく話題にのぼる断捨離のことや、結局自分が死んでしまうと、家も含めて後生大事に残していたものは、自分以外の人にとっては文字通りお荷物となるということだ。昔、プラス思考の英語を勉強していた頃に学んだ「亀」の話を思い出した。亀は余計な荷物を抱えない。スローと言われようが、ダサいと言われようが気にしない。自分の所有物といえば自分を守る背中の甲羅だけ。時々首を伸ばして安全を確かめて、前進あるのみ。彼らは後ろへ進むことはできないのだ。
 亀ほど人にとって最高の人生の教師はいない。我々人間はただ観察しているだけでいろんな想像力を掻き立てられて、「彼らは何を求めて生きているの?」「彼らの喜びは、楽しみは?」などと疑問や質問が湧き出てくる。アメリカの高速道路で横に並んだパトカーの警官から「もう少しスピードを落としなさい(You’d better slow down.)」とマイクを通して注意されたことがあった。注意だけで済んで止めらることもなかったけれど、今はウサギになるよりは亀の方がいい。

夕焼けにススキを見ながら考えた

2022-10-25 16:43:47 | 日記
 朝夕には冬の足音が聞こえるような肌寒さと透き通るような空、秋は感傷の季節、思い出の季節と言われる。僕は秋といえば柿やススキや栗が頭に浮かぶ。感傷といえば、その象徴、ススキをそこかしこで見かけるようになってきた。夕焼けとススキ、早朝にはススキが露に光るなどの光景はその典型である。なぜか写真に撮りたい風景だ。『後撰集』の “白露に/風の吹きしく/秋の野は/つらぬき留めぬ/玉ぞ散りける”が身近になる今日この頃である。止めが外れた真珠の玉が飛び散っているようだ…などと表現する百人一首の世界は今日の世界では難しくなった。 
 と思いきや。ススキ野で有名なのは曽爾(ソニ)高原、黄金の大海原と言われる広大な高原の風景が関西ではよく知られているではないか。一度行ってみたいと秋が来れば思い出すのだが、なんとなく遠いという感覚がある。近鉄電車で名張駅まで行って、そこからまだバスで50分ほどかかると言われれば足が遠のいてしまう。若い頃なら、「思いたったら即行動」とばかりにお尻が軽くすぐにでも出かけるのだが、その頃にはあまりススキだの感傷だのとの感覚が心を支配することがない。その種の思いが深まってくる後期高齢者の領域に入ってくると、お尻が軽いどころか、何をするにも「どっこいしょ」「よっこらしょ」などの掛け声が必要になってくる。初めて知る身体的衰えは、自分がその歳にならないとわからない。「何歳になったのか、体が思うように…」などを余り意識せず、“自分がどのように” 歳をとっているかに注意を向けることが大切だ。明日を考えながら “どのように歳を取りたいのか” を日々問いかけることにしよぉっと。

肌色マスクは要注意

2022-10-21 16:21:21 | 日記
 久しぶりに外出、帰路に夕方6時半ごろ、本町駅で生駒方面行きの中央線に乗った。仕事帰りの若い人達で混み合っている。久しぶりに混んだ電車で、優先座席は若い人が座っていて空席が無い。仕事帰りでみんな疲れているのだ、僕はあえて優先座席を外した。一般席で僕に気づいた青年が有難いことに席をあけてくれた。おかげて僕の人間観察がゆっくりとできた。
 最初の気づきは履き物だ。特に女性に目立つスニーカー姿は通勤には疲れを軽減する上で適していると思う。目が届く範囲では、踵の低いパンプスを履いている女性は二人、あとは全員スニーカーなのだ。通勤スタイルが変わったことを思い知らされた。近頃の若者は実用的なのだ。
 次いで気がついたのは、やはり乗客の全員がマスクをしていることだ。コロナで騒ぎ始めた初期の頃と違い、色とりどりのマスクはファッション性の高いものも出ていて、女性には人気らしい。僕の気づきは、自分の肌色に合わせたマスクは装着した女性の顔が、鼻や口をマスクが隠してしまうからか、例えが悪いが「のっぺらぼう」のように見えてしまう危険があることだ。マスクはどうやら、一般に行き渡っている白が無難であるように思えた。次いで黒が目立つように思った。自分がどのように他人に見えるかは、人を観察するとことが一番手っ取り早い。
 “私は美しくない笑顔を見たことがない I’ve never seen a smiling face that was not beautiful.”と言ったアメリカ人がいた。早くマスクなしに街歩きを楽しみたいものだ。

「自然の女神」が支配する

2022-10-18 16:30:34 | 日記
 東大阪の僕の住む地域で秋祭りが昨夜、本祭りを終えた。秋祭りといえば収穫を感謝して祝うお祭りだ。日本の祭りは、春夏秋冬、季節と天候を意識しながら行われてきたことは各地方の祭りを調べてみればよくわかる。春には種まきや花を楽しみ、夏には植えた種の成長を願って日本国中でいろんな祭りが催される。そして秋はもちろん収穫の時だ。豊穣を喜ぶ祭りが地車(だんじり)、神輿(みこし)などを使いながら神社と結びつき神事が行われる。冬には田畑を休ませて、新年への期待を膨らませる。大きく捉えると ”自然” と密接な関係があるということがわかる。まさに「自然の女神」が人の世を支配している(Mother Nature rules.)のだ。
 自然との関わりが深い祭りは人の出だって天候に左右される。雨や寒い日は人出がなく、地車だけが掛け声賑やかに通り過ぎるという時もあった。今年はコロナ明けの影響もあるのだろう、たくさんの子どもたちが参加して、本当にお祭りらしい雰囲気であった。地車だの布団太鼓だの賑やかに僕の家の前を何台も通り過ぎて、騒々しい二日間だったがこの祭り明けは静けさを取り戻した。元の閑静な住宅街に戻って気がついたことがある。僕の家の北向かいは地車の待機場所で、曳行された地車が出発したり戻ってきたりする場所になっている。青年団が休憩したりビールを飲んだり、喫煙場所のようになっていた。ところが今年は前の溝も吸い殻は数個、お菓子の包装紙が二、三、転がっているだけで掃除もあっという間に終えられた。コロナの影響でビールはできる限り控えめで、若い人の喫煙者も減ったことを物語っている。コロナ、コロナで騒いだこの数年、「自然の女神」は人に何かを教えようとしているようにも思えた。

明日という日はずっと続く

2022-10-14 16:27:43 | 日記
 昨日のことだ。いつものように6時に起きて庭にでて朝の新鮮な空気を独り占め。ふと空を見上げたら、なんと「有明の月」が西の空に浮かんでいる。角がやや薄れているがほぼ満月に近い形で浮かんでいるのだ。満月の月齢14歳というから、この日の月は月齢が16、7歳ということになる。夜の月の出が遅くなると、朝まで月が空に残る。これが百人一首に有名な有明の月である。“いま来むと 言ひしばかりに 長月(ながつき=9月の古典読み)の 有明の月を 待ち出でつるかな”…昔覚えた懐かしい歌だが、僕は百人一首のこの歌のように恋人を待っているわけではない。朝方になんとなくな寝つき悪くなって早く時間が経過して、人に迷惑をかけない程度の早起きのタイミングを待っているという情けない時間だ。早く経過して、今日という新しい日に起きるかもしれない楽しみを探している時間だ。
 14、5年前だろうか、アメリカのオハイオ州の素晴らしい老人ホームを訪れたことがある。
”何歳になろうとも明日から後に続く明日を私は楽しみにしている I look forward to all my tomorrows, no matter how old I get.”といったようなことを言う人がいた。施設の中で、そんなプラス思考を教えられているのかもしれない。とにかく、all my tomorrows と明日が複数になっていることに痛く感激したのを思い出していた。未来と訳すより、「明日、明後日、ずーと続く明日という日」と日本語にすると詩的で僕は好きだ。空を見上げて有明の月を見つけることができて、アメリカの老人ホームのことを思い出すことができて、何となく気が晴れて、早起きで「三文(さんもん)」以上の得をしたように思った。