学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

不自由も常と思えば

2020-06-30 16:10:33 | 日記
最近は自粛要請での不要不急の外出を控えるという “不自由な日常” から少しは開放されてなんとなく気が軽くなった、とは言え外に出てちょっと一杯と思っても現役の友人達は皆さん仕事で忙しい。僕は歳のせいか夜出かけるのが面倒くさくなってきて余計に夜の付き合いが遠ざかってしまう。お陰で弟と時々 ’昼飲み’ に出かけるのが楽しみになった。「鯛もひとりはうまからず」ということだ。店の人に自己紹介などしながら二人で飲んでいると、どこに行っても「仲のいい兄弟ですね」、と言われるのももう一つの楽しみである。外に出かけない日は昼間の空いた時間にブログを簡単な小冊子にまとめようかな、などと考えてテレビのドキュメンタリーを見たりするかたわらで諺や故事成句を調べる作業に精を出しているとこれがまたなかなか面白い。先人たちの人生の生き方から学ぶことは本当にたくさんある。
「不自由も常と思えば不足なし」と言ったのは誰だっけ。いずれにしても、不自由もそれが当たり前の日常となれば特に不満を覚えることもなくなる。これは僕が気に入っているプラス思考の一つで逆発想的に見方を変えて受け入れてみるという考え方で味がある。「自分の人生の改善法は思考の改善から始まる」ということだ。逆発想的な考え方の楽しさに目覚めたのはアメリカの大学に通っていた時だ。僕は数学の専攻で卒業したのだが、分数の読み方が日本とは逆なのである。例えば”3分の2”は two thirds (二つの3分の1)とか Two over three “3の上の2または2は3の上にある” などと分子を中心に上から読むのである。僕はこれに慣れるのにずいぶんと時間を要したものだ。over という単語には 「〜の上、〜を越えて」という意味がある。ちなみに、プラス思考の考え方にある“ It is all mind over matter.”(心配事は全て心の問題である)と訳しているものだが、matter(悩み事や心配事)を超越した上にmind (心、知力、思考力)があるという考え方を意訳したものだ。参考までにもう一つ元先生らしく、mind (マインド)とは人間の肉体と区別して、思考、記憶、学習、知覚を受け持つ人の心という意味である(…教師のちょっとしたイヤミなドヤ顔(?)

触る文化の危機

2020-06-26 16:39:19 | 日記
大阪の吹田市にある国立民族博物館、大阪の人々の間では ‘民博’ と呼ばれて親しまれている。6月21日付けの読売新聞で、その民博で広瀬弘二郎先生(52)准教授の文化に関する持論が取り上げられていた。僕が今回ブログで取り上げた最大の理由は彼は全盲の文化人類学者なのだ。博物館にはオセアニアから始まっていろんな国々の民芸品などが陳列されていて訪れる人々は世界の人々の暮らしや文化に想いを馳せて異文化と “触れ合える機会” が提供されている。僕も現役時代にゼミの学生を連れて何度か足を踏み入れた博物館である。“触れ合う”という意味は実際に手で触れるという意味も、近くで体感できたり鑑賞することができるという意味もある。
前置きがずいぶん長くなったけれど、今回のコロナ問題で物に触れることを避けるという生活は目に障害を持った人達にとってみれば何を意味するのだろうか。広瀬先生、「さわる文化の危機」という表現で新しい生活様式を表現されている。「はッ」と気付かされた瞬間であった。物に触れて生活する我々だが、目に障害を持った人たちにとって感染を避けるために物に触れられないということの切実さは健常者のそれとは比較にはならない。アメリカに住んでいた時に「触ってごらん」という場面に何度も遭遇した。最初の経験がアメリカンバファローの毛皮に触れた時のことだった。日本人にとって「さわる」にあたる最初に頭に浮かぶ英語の単語は touch(タッッチ)である。その後あまりにもいろんな場面があったのでほとんど覚えてもいないけれど英語では “Feel it!” である。Feel つまり「感じる」である。触って触れて感じてごらん、という意味が強調されて ’なるほど’ と頷いたものだ。我々にとっては物に触れて触って本当に感じる物を初めて身近なものとして意識することができる。マスク、アルコール消毒、人との接触を避ける、ということが今後とも予測できる。これからの生活は本当に「さわる文化の危機」であると言えるだろう。仕事であれ人間関係であれ、“Feel it!”。人と人との接触や人と物との接触が以前のように当たり前にできる平穏な生活を取り戻すことが可能になる日は来るのだろうか。

不要不急の買い物とは

2020-06-23 17:20:31 | 日記
移動の自粛解除と同時にプロ野球も開幕した。コロナで自粛の期間中は毎日の生活の仕方などいろいろ考えた期間であった。僕は年齢のことを考えて感染を避けて徹底的に自粛を励行した。そして残りの人生をどのように生きるかなども考える機会となった。用もないのに外出することを控えるようにとの要請ではあるが、「本当に必要な外出」はもちろん「用もないのに単なる気晴らしの外出」もよく考えてみるとどちらも人間の生活にとっては大切な行動だ。僕の外出といえば、女房と二人のスーパーの買い物と自分個人的に必要な小物の買い物でジャパン(ディスカウントストア)に出向くことだけであった。普段からモールなどへ出かけるのは気晴らしと世間に遅れまいとする気持ちからだけである。
さて、そのジャパンでの一コマ。40代ぐらいの主婦らしき二人が「不要不急の買い物」について流行りの不要不急の外出をもじった話で盛り上がっていた。不要不急の買い物とは、と興味を覚えてしばらく盗み聞き。つまり自粛をしているうちに大して必要でもないものを買い込んでしまったと言う話だ。もう一人は自粛の閉塞感を買い物で発散していると言うことを盛んに強調している(感染を避けるという意識はないのかな)。つまり、不要不急の買い物とは単に「欲望の買い物や単なる自己満足の買い物」ということを意味しているらしい。買い物には当然お金の問題が生じてくる。アメリカには “あなたの買い物は必要なもので単に欲望からのものでないことを確認すること(Make sure all your purchases are needs, not merely wants.)” という戒めの言葉がある。それでも、やはり人が生きるためには一見無駄に見えることをするということはストレスの発散には絶対必要な精神安定剤だと思う。
「野球好き 今は手酌で 盛り上がる」などという川柳を見つけた。きっと一人でビールや日本酒を飲みながら野球観戦を盛り上げている人の川柳だろう。人には発散するものが必要なんだ。その手段を無理やり抑制させられることはそれこそストレスを溜めることに他ならない。新しい生活様式、どのように組み立てていこうかな。

自分の座る座布団はどこに

2020-06-19 18:06:12 | 日記
小説を読むなどというのは本当に何十年ぶりだろう。大学で授業のための資料を収集してその提示の仕方を工夫するなどということに時間をかけてきた僕には珍しいことだ。今回は“鈴木るりか”という少女作家の話をまとめようと思う。(ついにコロナの話題からの脱出!)
小学生の頃から小説を書いて授賞を重ねながら本を出版。中学2年で作家デビューという子供のことを読売新聞で知った。僕の歳では、なぜか「るりかちゃん」と呼びたくなるほどの年齢だ。新聞を毎日読まなければ落ち着かないという彼女、活字を追うことは“静かなアグレッシブな精神活動”という彼女、今は16歳の高校生。小学生の時には母親との図書館通いで情報収集や活字の大切さを知ったという。その頃から小説を書き始め、投稿しては賞をとるというすごい子供だ。早速アマゾンで手に入れた本は彼女の作家デビュー作『さようなら、田中さん』と『太陽は一人ぼっち』でどちらも小学館から出版されている。アマゾンで届けられたこの二冊をあっという間に読み終えた。久しぶりに小説を読んで満足した。内容に感動しながら、こんな小説を書ける子供が存在するのかと何度も黙って目を閉じて満足感に浸っていた。それほど鈴木るりかは僕を驚かせた。感受性、想像力、文章の運び、ストリーの組み立て、全て一級品である。彼女のテーマは“居場所”。ひと言で言えば家庭の事情で居場所を模索する人達の話である。過去を隠しながら明るく元気なシングルマザーに育てられる少女がメインキャラクター。そして親の再婚で居場所を失う彼女の友達の少女、トランスゼンダーの男子、兄弟との成績比較で居場所を失う少年の話。なぜか心に残る読後の満足感、それは後期高齢者の僕の心をすら安心や喜びで満たしてくれる。そして…何より驚いたのは最後のシーンで僕の頬を涙がつたっているのに気づいたことだ。僕は常々、人生は死ぬまで自分の座る座布団を探す旅だと考えていた。るりかちゃんは中学2年生ですでにこのことに気付いていたのだ。夜寝床でそんなことを考えながら眠りに陥る寸前に外で雨の音がした。彼女風にいうと「闇に溶け入るように雨の音が聞こえてきた」…

仲良くやろうよ

2020-06-16 18:09:55 | 日記
コロナの話題に振り回されて、もう一つ気になっていたことがある。アメリカで警察官に膝で首を押さえられて黒人男性が死亡した事件である。僕がアメリカに住んでいた頃はもちろんのこと、アメリカが抱えるどうしても解決できない深刻な問題の一つがこの人種問題である。新型コロナとは関係ないと思っていたら大間違い、今度の大騒ぎにはやはりどこかで繋がっているのである。「命の格差」と言われる問題と繋がっているのである。黒人の死者数は白人の二倍を超えているという。背後には経済格差という問題も見え隠れする。そんな折も折り、黒人男性、ジョージ・フロイドさんが警官に押さえつけられたまま息絶えた。アメリカの人種差別問題がまた表面に浮上してきたのだ。
僕が留学していた頃と何も変わっていない。キング牧師の訴えも公民権運動も、黒人の人々への偏見を乗り越えることができなかった。今回のデモを先導しているプラカードは“黒人の命は大切(Black lives matter.)”である。日本語訳として少し工夫が足りないと僕は感じている。「黒人の命は大切」というのはその通りなのだが、僕は「黒人の命を軽視するな」と訳している。そんな細かい事を気にするな、という人もいるだろうが人の命は黒人であろうが誰であろうが大切だ。「…命は大切」という日本語訳にはなぜか不思議な違和感を覚える。英語のマターという単語は正確には「問題視、重要視する」といった意味だ。デモの人達は間違いなく「命を軽視するな」という意味でこの単語を使っているとアメリカでの日常のマターの使い方から確信している。
英語訳の論議はこのくらいにして、本当に何とかならないのかこのアメリカの人種問題。僕がアメリカで生活していた頃を思い出しても、黒人であれ白人であれ、個人的には皆ざっくばらんで楽しく明るい人達だ。なのに何かの拍子に人種間の雰囲気が一変する。人は皆一人ひとり異なった存在だ。違いを認め合って楽しく平和に共存共栄はできないのか(アメリカに限らず、世界で起こる戦争や対立にも同じことが言えると思う)。なんとかしようよぉ〜と叫びたい。
何とか仲良く生きることを学ぼうよ!(Let’s learn to live together as brothers and sisters.)