学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

駄々をこねると…

2019-10-29 17:42:06 | 日記
10月26日と27日に連続して目撃した同じような光景を文にしようと考えた。26日の土曜日は久しぶりに家の近くの東大阪の花園ラグビー場の公園を歩いて目撃したエピソード。自動販売機の前で2歳ぐらいの男の子が地面に仰向けに寝転んで手足をバタバタ、大声で泣きながら何かを叫んでいる。赤ん坊を胸の前に抱っこしながらお母さんがこの男子に言った。「買わないと言ったら、買わないのだから」「いい加減にしなさい」「そこで叫んでいたいのならそれでいいよ」「もう帰るからね」。男の子はジュースを買ってほしかったのだろう。母親がもう家に帰るのだから無駄使いをしたくないということで、この大騒ぎになったのだと思う。
翌日の日曜日、古い友人達との飲み会に出向いた京都駅。何か理由は分からないが同じ光景が駅のベンチで起こっていた。いや―お母さんは大変だ。大人はむずがるのは“子供の特権”などとはなかなか考えにくいものだ。どうやら昨日と同じように自販機のジュースを買う買わないの問題であったらしい。お母さん、「そこで泣いていたらいいよ。電車が来たらおいていくからね」と厳しいお言葉。そこで僕は考えた。
駄々をこねるのはいいけれど、ずっとそこにいることはできないということを子供は学ばなければならない。考えてみればみんな大人はそのような経験をしながら現在があるのだろう。We must get up after all. Otherwise, we must remain there on the ground.(結局は立ちあがらなければならない。さもないとずっとそこ、地面に寝転んでいなければならないのだから)。[なんで急に英語?何となく言いたいことが恰好よく表現できそうで… ]
大人の場合は仕事であれなんであれ、駄々をこねていても悩み続けていても何もはじまらない。どこかで気持ち、精神的折り合いが必要だ。失敗などで転んだら、気持ちを切り変えてどこかで立ち上がらなければならない。ずっと失敗を引きずっていたら苦しみからは脱出できるはずはない。なぜかそんなことを考えていた。人生、振り返ったら沢山の失敗をしてきたもんだ。

「問う人」は学ぶ人

2019-10-25 17:28:39 | 日記
ひょんなことからスマホの多種多様な機能を調べてみる事に挑戦しょうと思い立った。特にLine の便利さには本当に感心する毎日で、友人や家族とのちょっとしたやり取りのおかげで親密度がまして人間関係が変わる。若い人達には“うざい”、つまり面倒な時もあるらしいが我々高齢者には、うまく利用すれば本当にすばらしいツールである。
Line 上のチャットを長押しすると黒くハイライトされた様々な機能が画面に出てくる。その一つひとつの機能を使いこなそうというのだ。僕が特に気に入ったのはスクショ(スクリーンショット)。これを利用すると写真であれ会話文であれなんであれ‘Googleフォト’に保存できるのだ。スクショは他にも、例えば電車の乗換案内などの表示画面もアッと言う間に同じように保存できる(電源とホームボタンを同時に押す)。メモなどは不要なのだ。このあたりまでやりだすと、本当にもっと知りたいという衝動に駆られてますますはまり込んでいく。時間の経過もあっという間で、気が付けば3時間も経過していることになる。
この時点を過ぎたあたりでスマホは意地悪を始める。急に動かなくなったり変なところをタップしたりしてうまく機能しなくなって若い人に助けを求めて大騒ぎすることとなる。イライラが積り家族を巻き込むような大騒ぎである。ラインの「トーク」の友人リストが急にひとつ赤い帯になって消えてしまった。トークの履歴は残っている。しかし、最初の画面から名前が消えた。これで大騒ぎは1時間は続くことになる。ええーィめんどうとばかりに電源を切ったら元に戻った。「人をバカにしているのかこのスマホ!」
それでも再認識させられるのは「知りたい」がすべての成功への出発点ということだ。ノーベル賞の吉野彰さんも、「なぜ?」「知りたい」からの出発だったという。吉野さんの化学は化け学(ばけがく)と人は呼ぶ。物が化けるのだ。まさにそこからの先生の「なんで?」の出発である。トイレの洗浄塩酸に釘(くぎ)を入れたら水素が発生する…なんで?実験して考えてまた同じことを繰り返して試行錯誤と努力が吉野さんをノーベル賞にたどり着けさせた。「問う」ことが多い人は「学ぶ」ことが多い。

明日にワクワク感を

2019-10-22 16:23:22 | 日記
雨模様の東京では天皇の即位礼正殿の儀が挙行された。引き継がれていく日本の伝統。世の移り変わりと季節の変化が流転する人の世を感じさせた。令和が平和で明るく楽しい時代になりますように…。

暑い夏が過ぎて、秋がやってきて、気が付いたらもうお正月ということになるのだろう。とはいえ、季節の変化の速度にただただ「速ッ!」とあきれているだけではいけない。年が明けて春になったら何かワクワクすることが出来たら、と思う。そうだ、またアメリカ旅行でも計画しようかと考えた途端にあのワクワク感が蘇ってくる。
“歳をとっても、明日からの日々に起こるかも知れないすべてにワクワクしたい”これを英語にするとどうなるのだろうか、などと暇にまかせていろいろ考えてみた。あれやこれやと
知っている英語の知識を利用しながら出来る限り平易な英文作りを試みてみた。僕が一番好きな作業である(僕はひとりでいる時や、電車の中、散歩中などでは英語でひとりごとを言う。家に帰って辞書で表現を確かめたりする)。前置きが長くなったが、たどり着いたのが次の文章。(I am going to enjoy looking forward to all my tomorrows, no matter how old I get.)なかなかのものだと一人で悦に入っている。直訳すると、“明日からの日々のすべてに期待することを楽しむつもりだ”というような意味になると思う。英語の勉強をしている人や英語の好きな人にはちょっと時間をとって分析してもらえたらありがたい。
先ず明日を楽しむつもりである、それから僕の明日の次の日、(大阪では「しあさって」、東京では「やのあさって」)に起こることにワクワクするという感覚を次々と楽しむ、ということで、tomorrows と明日に s を付けておいた。
実際にアメリカ旅行の計画をまた立ててみようか、と女房と二人で話し合った。新婚の状態でアメリカ留学を果たした僕たち夫婦はその頃の貧乏だったが楽しかったアメリカ生活の話をするとワクワク感が呼び戻される。それから二人でスマホに取り組んで、60年代の音楽、いわゆるオールディーズをいつでも聞けるようにとあれこれ試みてみた。古い記憶は音楽と共に蘇る。明日のワクワク感は昨日のワクワク感を思い出すことでも引き出せることを再認識することとなった。どうってこともない。僕たち年寄り夫婦の生活の一コマである

今年の秋の思いやり

2019-10-18 17:46:21 | 日記
僕の住む地域の秋祭りが台風や雨に影響されながらも何とか無事に終了した。そして、朝夕の空気が完全に秋の気配でいよいよ冬支度とばかりに毛布の準備やストーブの用意に自分の気持ちが向かっていることを感じる。庭の木々や雑草を見ていてもそれらの一部が黄色く変色しているのに気づく。僕が身につける衣服も、完全に秋の深まりに対応するかのように変わってきた。自分の生活にも変化が表れて先ず一番に気付くのは長袖のシャツである。つい先日までのT-シャツがあっという間に変わってしまったのだ。
冬支度という事で、また台風19号の罹災者のことが頭をよぎった。今週はどうしても台風19号の残した傷跡そしてそれに立ち向かっている人々のことが頭に印象付けられている。朝にベッドを離れると新聞を読むことに2時間程度を費やす僕は、新聞やテレビで伝えられる被災地の様子、人々の絶望感との闘い、そして支援を惜しまない人々の思いが自然に僕の頭の中を支配する。特に映像で伝えるテレビの影響は本当にすごいと思う。テレビ各局のニュース映像が目に焼き付けられてしまうのだ。「応援しています。必ず復興できます」との手書きの励まし文が付いた支援物資が送られてきたと報じているニュースがあった。岡山の真備町からの支援である。天災を生き延びて水害を乗り越えて明日に向かう罹災経験のある人々の心が伝わってくる。今回の台風に伴う河川の決壊で罹災された人々が本当に勇気つけられるのはこのような支援の心意気なのだとおもった。英語の格言を紹介しよう。
社会をつなぎ合わせるのは思いやり(親切)という金の鎖である
Kindness is the golden chain that binds society together.
あおり運転、虐待、いじめ、人間社会の荒廃を嘆くこの頃ではあるが甚大な被害をもたらした災害の裏に光があるとすれば罹災者の心に寄り添ってあげようという‘思いやり’ではないのだろうか。僕が秋の深まりを感じて、もの思いにふけっているということは罹災された人々にとっては寒い冬をどのように乗り越えるのかの切実な思いを呼び起こす季節の移り変わりなのである。このことを忘れないようにと自分に言い聞かせた。

朝の来ない夜はない

2019-10-15 17:09:24 | 日記
毎年必ずと言っていいだろう、台風が日本を襲う。千葉の人達が苦しんでいる台風15号の後片づけの真っ最中にまた大型の台風19号がやって来た。今度は風もさることながら大雨の災害だ。河川の決壊が目立って多く、関東のいろんな場所で家々が水の被害にあって人々はお手上げの状態である。泥を家から黙々と掻きだす人々の姿をテレビで見ると本当に心が痛む。慰めの言葉が見つからない。テレビの光景をみながらいつもふと思うのは惨状を粛々と伝える報道と区別して、興味本位的にさえ思えるようなマスコミの過剰取材が人々の邪魔になってはいないのだろうかと。被災した人達にはそんな取材に時間をとられてかまっている暇はないのだ。
日本は山から平地、そして海へと短い距離で直結している。台風などに伴う大雨が降るとすぐに河川の氾濫の危機にさらされる。これほど毎年繰り返される水被害に行政は真剣に行動を起こさなければならない。治水事業への取り組みである。住民もまた単に利己主義的な自己本位から脱して大局的に地域の安全を考える時が来ているように思う。
辛さや困難に耐えることを辛抱と呼ぶ。英語のpatience(ペイシェンス)も辛抱、ガマン強さ、などという意味だ。罹災された人々にはそんなことを僕に言われなくても分かっていると言われるだろう。若い人には再出発という希望がどこかにあって、この災害は自分のこれからの人生の試金石と考えることもできるだろう。しかし、歳をとられた罹災者にはやり直しの気力が残っていないかも知れない。どうすれば彼らにも残る人生の光を見つけてもらえるのだろうかと真剣に考えた。僕の頭では答えがでない。我々は何が出来るのだろうか…。それでも信じたい。朝の来ない夜はない。英語では“最も長い暗い時間は夜明け前にあるThe darkest hour is before the dawn.”ということになる。ひとり一人が夜明けを信じて光を見つける努力をしなければならないのだろう。