学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

面倒を見やすいボケの盆栽

2024-01-30 16:46:43 | 日記
 スーパーの外にある園芸コーナーで可愛いいボケの盆栽をみつけた。15、6年前まで母屋の前栽の片隅にピンクの花を咲かせるボケがぼくのお気に入りだった。残念ながら今はない。今日手に入れたボケの盆栽は赤い花を咲かせるらしい。長寿祝いなどという広告がはりつけてあった。最近は使う言葉に注意しなければならないけれど、ボケの花の”ボケ”は老人ボケや認知症と結びつく。話はあちこちに飛ぶようで気がひけるが、60年も前に僕がアメリカ留学中に世話になった家の奥さんが晩年認知症を患って2年ほど後に他界された。同じことを何度も何度も聞くタイプの痴呆であった。それでも不思議なことで40年ぶりに家族を訪問したときに僕たち夫婦のことは名前はもちろんなんでも覚えているのだ。まわりの息子娘達はただただ驚くばかりだった。
 さて本題の盆栽だが最近は幅広い年齢層の人々に愛されているとは聞くが、いまでも盆栽は老人の趣味的な捉えられ方をしているように思う。なぜだろうか。盆栽は芸術、限られた空間のなかで静かにしっかりと根付いて「命や生」への共感を感じさせ、じっと鑑賞していると敬意すら湧きあがってくる。盆栽とは瞑想を呼び起こす生きた彫刻であると表現されることもある。歳のせいだろうか、盆栽は時間をカプセルに閉じ込めたような不思議な感覚を覚えさせる存在なのだ。日本中の山野に自生していて比較的簡単にどこででも見つけられるボケの木は日光をしっかりと浴びさせて大事にすると比較的面倒の見やすい木だと言う。よし!今日は日光が暖かい。膝が痛いなどと言っていないで庭に出てボケの木(老人)になろうっと…。

動きを奪われた時に学ぶこと

2024-01-26 16:19:19 | 日記
 近畿地方の北部では大雪で各地の道路で交通が麻痺、トラックなどの車両の立ち往生が報じられている。「立ち往生」とは途中で止まったまま動きがとれなくなる状況を言う。つまり身動きが取れないことを言う。車の立ち往生で一番困るのは食べ物の取得、そして何よりトイレだという。長時間狭い車の中で閉じ込められて用を足せない状況でのトイレ問題は想像に難くない。人生にはいろんな痛みを伴う事件が起こる。雪の中での立往生ほど自分の意思とは異なる状況に閉じ込められた時の苦痛をうまく表現できるものはないのではと思うことがある。
 英語にpainful (ペインフル)と言う単語があって 痛みを伴う、骨が折れる、困難な、悲惨な、退屈な、などの意味を持つ。まさに立ち往生の状況の中での苦痛を表現している単語である。さらにもう一つ英語の単語にstuck(スタック) があって、途方にくれる、抜け出せない状態を指す、と辞書にあるこの二つの単語を使うとほぼ完全に立ち往生の状況を表現できて人にその苦しみを伝えることができる。周りの人々の支援や気温の変化と共にいずれは解消できる問題ではあるけれど、人の人生で時々降りかかるこの種の出来事は我々に何かを伝えようとしているように思うことが時々ある。せめて “動きが取れない状況以上の不幸はない”、ということに気付くだけでも我々は自分の人生で何が大切かを学べるのかも知れない。視点を変えて平穏な日常では、「物を成し遂げる人とは自分が選んだ一つの仕事に‘スタック‘、抜け出せない状況に自分を追い込んで目指すものを手に入れた人のことである」などと教えられたことがあった。

「成功」の邪魔をするものは「失敗」への恐れ

2024-01-23 16:23:07 | 日記
 膝が痛くてびっこを引きながら近くのコンビニに入店。英字新聞を取り扱っている唯一のコンビニである。何かの事件や注目の出来事などがあった時の限定で英字新聞を購入する。理由はどのような単語や表現が使われているかをチェックするのが目的だ(今回は月面探査機スリムの記事)。カウンターの向こうの女の子が僕の顔を見ながら「この新聞読みはるんですか。すごいですね」と言いながらレジをうった。「そう、まあね」と僕。白髪の、足をびっこを引きながら入店した見るからにみすぼらしい老人と英字新聞がミスマッチ、そんな雰囲気が感じ取れた。(2024年の現代でもやっぱり英字新聞を読む人は”すごい”のか)
 話を本題に戻すとして、日本の探査機の着陸技術はかなり世界に自慢できるものであるらしい。今回も見事ピンポイント着陸技術を実証したと言う。何せ先陣を切った国々の着陸精度は数キロの誤差の中での話だという。日本のスリムは誤差100mと言うのだから自慢できる。とはいえ「大威張り」とはいえない面があるという。失敗とまでは言えないとしてもスリムのパネルが太陽光が当たらない方向を向いていて発電できない状況だと言う。なんでも挑戦は失敗と成功が表裏一体であることを再認、成功は失敗や想定外なくしては存在し得ない。バスケットボールのスーパースター、マイケル・ジョーダンは「何度も数え切れないほどの失敗を繰り返したから私は成功した」と言う言葉を残している。今回のスリムの不具合はまだまだ改良の余地があることを関係する人達に教えているようだ。失敗を恐れるな!頑張れ、ニッポン!
 

記憶の中で廃屋は生きる

2024-01-19 16:50:00 | 日記
 毎年のように新年と共にアメリカの友人から ’声かけメール’ が送られてくる。別に深い意味はない。新年の挨拶と彼の家族の写真や自分の趣味で撮った写真などを送ってきてくれるのである。写真はかつての留学時の郷愁を呼び起こしてくれる。今回はそのうちの一枚、廃屋の写真がかつて自分がいたころの見覚えのある建物の写真で、窓枠が朽ちて外れそうになっている。窓ガラスも何枚かが割れてカケラだけが虚しく残っている。どんなものでも古くなる。永久に続くものは多分この世には存在しないのだろう。
 僕は使われなくなった橋、道路や線路、廃屋など、見捨てられた物を見るとあの芭蕉の俳句、「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」が何故か頭をよぎる。この句が伝えるものは、”つわもの共が生きた時代の夢や野心が戦いに敗れることで儚く消えて、戦いの後には夏草だけが残って風にそよいでいる"、ま、そんな意味だ。そこで、僕が写真に見た感覚を次のように英語にして送っておいた。「家を見捨ててどこかに姿を消した人の夢の跡”After the abandoned building I see the dream of someone gone”」…日本でも時々見かける見捨てられた家や橋や廃線は全て関わった人々の記憶の中に生きている。例えば建設などに関わった人達には、表には出ない口には出さない何か、例えば夢のようなものがあったかもしれない。一般の人々が忘れかけているものがなんとなくいつまでも痕跡を残すのは、それらの全てが姿を見せない回想の記録に支えられているからなのかも知れない。

老齢、前を見れば今日が一番若い時

2024-01-16 16:18:22 | 日記
 子供達の登校時間をできる限り避けて家の周りの溝や道路のゴミを拾ったりの清掃をするのが僕の朝の日課である。いろんな人が通り過ぎてお互い声を掛け合ったりすることもずいぶん楽しいものだ。時々我が家の前を乳母車を押しながら通るおばあさんと出会う。自分の歩行を補助する目的だけで乳母車を押しているのではない。彼女の乳母車の中にはマルチーズの老犬が毛布に包まれて暖かそうに首を出して周りをキョロキョロと見物しながらの散歩(?)なのだ。やや腰の曲がったおばあさんはそれでも自分の歩行訓練と犬の散歩を兼ねている、と幸せそうに話す。
 「今日は私の誕生日でんねん。今日から先、考えたら多分今日は私が一番元気なときですよってな」と言った。「それはそれはおめでとうございます」という僕の声かけが聞こえたのかどうかは定かでない。それでも自分の歳が86だと呟くように言った。毛布に包まれたお犬様もまた歳をとっていておばあさんは老老介護だと何故か得意げな顔で微笑んだ。
 歳と共にいろんな記憶が薄れいくという人がいるけれど、考えようによっては過去の面倒事を忘れて今を大切に生きることができるようになったと言うこともできる。僕のように夢に出てくる過去の場面が大抵あまり思い出したくもないものであることが多い人が言えることかもしれないけれど。歳を重ねるということは本当に不思議な感覚だ。一つだけはっきりしている事は歳と共に老いていくということだ。後ろを見れば今が一番歳をとった時、前を見れば今が一番若い時…そんなことを考えてお婆さんの後ろ姿を追っていた。