学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

物を貯め込む

2020-07-14 17:45:55 | 日記
名詞が動詞に使われるということは英語ではよくある。僕はそんな単語を集めるのが好きで、実際に調べてみると実に楽しくいろんなことがうまく表現できることに驚く。以前に書いたこともあるのだがアメリカで友人の家に泊まっていた時のある朝、奥さんが仕事に遅れそうな旦那さんに「家の鍵持った?」「サングラスは?」「名刺は?」と矢継ぎ早に注意していたときのことである。Are you mothering me?(君は僕の母親か?)と笑いながら返した言葉が面白かった。motherという単語はもちろん“母、母親”である。この単語を動詞として使うと母親が小さい子供にするようにくどくど注意して世話をするというニュアンスが見事に表現できるのである。
同じように先日、英語の ”リスのように貯め込む(squirrel away)” という面白い表現を偶然見つけた。squirrel (スクワーレル)という単語はあの可愛いリスである。見つけた表現は Don’t squirrel away too many nuts.(ナッツを溜め込みすぎるな)という英文。冬ごしらえのためにリスはせっせとどんぐりの実やナッツを巣に持ち帰って蓄える。蓄えがいき過ぎると腐ってしまうこともあるのだろうか。motherと同じように squirrel という単語もリスの本能のように人間にも貯め込む習性を持った人への戒めか。今回のコロナの感染が広がり始めた頃、トイレットペーパーを買い溜めするために東へ西へスーパーや薬局を奔走した人がたくさんいた。なぜか、トイレットペーパーが町から消えるというデマである。東日本の大震災の時にも同じことが起こっている。社会の混乱や災害などが起こった時の不安心理がデマの原因であるという。日本には温水洗浄トイレもある。ちょっと考えて工夫すればスーパーを東奔西走する必要はない。僕のように徐々に歳をとってくると、なんとか身軽になって人生を終える方法を考える。できる限り物はため込まないことを心がけねば後で処理する者が大変なことは僕は身をもって経験している。内に溜め込むのは元気さや、明るさや、プラスのエネルギーだけにしておきたいと考えている。

「その気」にさせる話

2020-07-10 16:40:48 | 日記
アメリカの教育者、ウイリアム・ウォード(William Arther Ward)の名言はよく教育に関して引き合いに出される。アメリカ南部、ルイジアナ州に居を構えた人で牧師としても活動していたという。現役の頃、よくこの人の話をしたのだが、社会が変化してオンライン授業などが云々される今日この頃、教育、そして教師の役割とはなんだろうかとふと考えてみた。僕といえばすでに現役を引退して現場から遠ざかっているものの、時々教育現場のことが相変わらず気になるのである。とにかくウォード氏が教育の意味を問う中で教師に残した名言は以下のようなものである。
(1)普通の教師は言わなければならないことを喋る(2)良い教師は分かりやすいように説明 する(3)優秀な教師はやってみせる(4)偉大な教師は生徒の心に火をつける
僕が大事にした最後の(4)番は人をその気、やる気にさせることである。学ぼうとする者、自らが心に火を付けることができるように鼓舞するという意味だ。
さて逆に、学ぼうとする者の姿勢に対しての話が日本に存在している。日本には「手習い」という言葉があって、学問や修行、また稽古事などを意味するのだが、江戸時代の後期に国学者として活躍した小田山与清という人が書いた『松屋筆記(まつのやひっき)』という書物の中に “手習いは坂に車を押すごとし” という記述がある。勉強や稽古事は手を抜けば坂を押し上げている荷車のようにすぐに下ってしまうと戒めている。僕は大学時代に大学野球連盟に関わったことがあった。僕の大好きな野球というスポーツの選手達の練習を見ているとこの言葉が確信をついていると思ったものだ。練習とは熟達への道を切り開いてくれる。ちょっとサボれば元に戻ってしまうのだ。僕は若い頃、もう半世紀前アメリカ人の学友に教えられてギターを弾くのが好きだった。今、またその気になって練習を始めたけれど、指が痛くて弦を長く抑えられないのだ。何かに挑戦していてこれを読んでくれているあなた、僕は少しは君の心に火をつけられただろうか。

紆余曲折

2020-07-07 16:46:48 | 日記

テレビを見ていると本当にいろんな職種の人々がコロナ禍の中でもがきながら生活の立て直しを図っている様子が窺い知れる。プロ野球の選手は「自分は野球でしか人を元気つける法を知らない」けれど、だからこそ野球を通して自分のできることを頑張るという。居酒屋を経営している人は「僕は居酒屋でしか生きる術を知らない」だから工夫してもう一度挑戦したいという。新型コロナウイルスはいろんな人に影響を及ぼして人生の紆余曲折を考えさせられた。
そんな最中にここ数日に豪雨に襲われた熊本県の球磨川の氾濫と土砂災害のニュースである。今年もまた水害が多くの人々に影響を与えて、絶望感が被災者をおそう。浸水した家で茫然自失、掃除すらどこから手をつけていいのか考えも及ばない状況に追いやられた人々の様子に身体が震える。ただひたすら泥の除去に黙々と精を出す人、泥の積もる廊下を水で洗っている人の顔、ほとんど反射的に動いているように見える。本当に打ちひしがれている様子が伝わって胸が痛い。
アメリカで勉強と仕事に必死だった頃に学んだ「希望というものは人間だけに与えられた特別なものである」というプラス思考。悩みを抱えた学生にこのプラス思考を利用して助言してきた僕すらも容易に先の光が見えない状態に置かれた九州の人々に心が乱れる。人は各々一生懸命に人生を生きる。自分の進むべき道を自分が選び一歩一歩足を踏み出して歩いていても、“紆余曲折”という化け物が予測もできないタイミングで襲ってくる。
人生の紆余曲折を平易な英語で表現してみると、次のようになる。The roads any of us choose are never free of bumps and curves. 私たち一人ひとりが選ぶ道はデコボコや曲折のないものはない。(注:free of 〜 心配、苦痛から開放されている、bumps デコボコ、curves 曲線、曲折)———「どうにかなる」「なんとかなる」、と呟き続けることが人が自らを救う鍵言葉であるという。この言葉をつぶやいているうちに本当に「なんとかなってくる」らしい。

不快な生活に戻らないために

2020-07-03 15:20:26 | 日記
僕は時々暇を見つけてはアメリカの生活や社会情勢を知るためにコンピュータの中をウロウロする。いわゆるブラウジングだ。格好をつけるわけではないが英語でうろつくのである。アメリカ人は一般にお喋りで話好きである。一人の女性の服装についての話に目が止まった。“I dress for comfort. (私は気楽さ、開放感、を求めて服を着る)私が不快な状態にいるには人生は短すぎる(Life is too short to be uncomfortable.)”というのである。アメリカ人にはよくある独特のちょっとわがままでそれでも何かを考えさせてくれる主張である。彼女の主張は女性らしさを求めて窮屈な衣装を身につけたりハイヒールを履いたりして不快な思いをしたくないというものだ。
窮屈で不快な思いということから、アメリカ人の大統領はじめマスクを嫌うという傾向について話してみようと考えた。新型コロナによるアメリカでの死者数は12万6000人,感染者は254万人(読売新聞6/29付)というのにいまだにマスクをしない人が大半だ。実際僕がアメリカに住んでいた時もマスクはバイキンを持っている人、犯罪者というような偏見を持っていて気軽にマスクなどするものではないなどと主張していたのを思い出す。更に彼らの毎週の生活にはとにかくパーティが組み込まれている。金曜日がくれば街の至る所でパーティが開かれている。若者は特に大学生を中心にスポーツ・バーで大騒ぎだ。夜遅くまで道路に響く叫び声やパーティ帰りで深夜に大声で喋りながらホテルの廊下を歩く人達で眠りを妨げられた経験が何度もある。3蜜を避けるように自粛を要請されて素直に従う我々日本人には考えられないような彼らの生活の姿勢が今回のコロナ騒動では特に気になるのである。(まったくなんとかしろよ!)
さて日本ではどうだろう。一般にあまり大騒ぎをする習慣がない我々はただ閉塞感と戦いながらの数週間だったように思う。新聞を読んでいると日本人の多くが憂うつに苛まれ、発散の仕方が分からなくてそれこそウロウロ。先程のアメリカ女性の言葉を借りれば “悩んで憂うつになる状態を続けるには人生は短すぎる(Life is too short to be depressed!)” 第2波はなどが来ないように祈るばかり。新生活を工夫しよう!