二人の女の子が庭に蹴り込んでしまったボールを取にきた。一人の女の子が「〇〇ちゃんがメチャクチャ蹴ったから」ともう一人の女の子を指さした。〇〇ちゃんと書いたのは意味がある。(人の名前を題材にすると色々支障があることが多々ある)いわゆるキラキラネームなのである。「名は体を表す(名前というものはその中身、実質をよく表す)」という言葉がある。名前はその人の青写真、名前がその人の性格にすら影響するということを僕が高校生ぐらいの年頃の時近所の年寄り達から聞いたことが忘れられない。これが僕の子供の名付けの時にも影響して随分慎重に考えたものだ。
ボールをめぐる単純な出来事から“名前”というものを今日は考えてみた。自分の名前がどのようにしてつけられたのかを調べてみると面白い。自分の両親がまだ若い頃の考え方や性格、そして生活の状況が見えてくることがある。僕の場合は、生まれた時がちょうど第二次世界大戦の終盤、日本では食べ物が不足していた時である。お米に困らないようにという祈りを込めて両親がお米屋さんの精米をしている様子を見ながら思いついて名前をつけたと聞いている(個人情報保護の関係で名前は伏せておく)。名前とは自分が何者かというアイデンティティ。名前はそれ自体が特別なもので、唯一無二、ユニークさの具現化されたものであると名前を書く時にはいつも考える。あの女の子、キラキラネームのおばあちゃんになった時、時代を反映した自分の名前をどのように捉えているだろうか、などと余計なお世話と言われそうな興味を覚えていた。