学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

夏休みの終わりを告げる雑草

2022-08-30 16:58:42 | 日記
 加藤俊徳(としのり)さんは腦内科医という肩書きだ。8月号のPHP誌に“「楽しくなる脳」を育てよう”という話を寄稿されている。”生活の中に自分なりの発見があれば、人は幾つになっても毎日を楽しく過ごせる(P 37)”というお話だ。朝のウオーキングを利用して道端の花壇の定点観測の写真を撮って花の成長を楽しむというのが彼の一つのやり方だ。これだ!と僕は飛びついた。早速、野草のエノコログサを観察することに決めた。
 エノコログサは子供の頃によく遊んだ“ネゴジャラシ”のことだ。麦のような穂先がついているあの草は放っておくとアッという間に庭の片隅に繁茂する厄介な草だ。でも子供の頃は、本当に猫じゃらしを使ってよく楽しんだ。手のひらに穂の部分を入れて“むすんでひらいて”をするとブラシのような毛の部分の向きによって、握った手から顔を出す手品のようだ。ちょっと危険なのは、口に入れて「ラリルレロ」を言うことだ。喉に引き込まれてえらいことになる。そんな思い出が蘇るネコジャラシを毎日観察してスマホで写真を撮っていると徐々に変化する様子がよくわかる。穂先が少しずつ開いてきて、例の毛か針のようなものの根元にたくさんんの種(タネ)がつく。それからだんだん色が薄茶から黄色になって、気がつけば周りは秋になっていると言う具合だ。ネコジャラシを注意して観察するようになってから、だんだんと気温が夏の終わりを告げ始めたことに気がついた。天候が曇りがちであることが理由かもしれないけれど、33℃から32℃と過ごしやすくなってきた。そして、明日は夏休みの最終日、子供さん達の宿題は大丈夫かな。

価値観という化け物

2022-08-26 16:29:56 | 日記
 東京・渋谷の路上殺人未遂事件の容疑者はなんと15歳の少女だった。事件に巻き込まれた被害者の母子の二人の無念さは察してあまりある。そして事件を起こした少女のことも同じように僕の心を塞ぎ込ませる。夏休みが終わる頃にはこの種の事件が発生することが多いことも知った。
 人は皆、自分が属する文化の価値観によって行動しながら日常生活を送っている。家庭における親と子、学校における教師と学生、生徒、児童、職場での人間関係、社会が変化してきているということは、我々日本人の価値観が変化してきているということだ。そんな社会の変化の中で、苦しむ子どもたちが増えてきた。子供は学校へ行かなねばならない、男らしく、女らしく、などなど、価値観に基づく文化的な圧力が特に小中学生の子供に及ぼす影響は深刻だ。
 先日から読売新聞では「しんどい君へ」という特集を組んでいる。例えば、学校へ行けなくなった子供たちに“不登校は不幸じゃない”ということを考えさせる。人はみんな違って当たり前、多様性という言葉が最近は声高に叫ばれる。自分を大切に生きるということは、どこかに自分の居場所は必ずあるということだ。僕はよく学生たちに「自分の座る座布団(ざぶとん)を探せ」という言い方をしたものだ。社会のどこかに自分にとって座り心地の良い座布団がきっとある。価値観という化け物に苦しめられる子供達には、『多様性』、つまり人生にはいろんな選択肢があることを知ってほしい。道は一本だけじゃない。本当は右にも左にも道はある。

夕立ちとゲリラ豪雨

2022-08-23 16:23:41 | 日記
 あーそろそろ、そんな時期か。クラブ帰りの二人の中学生の夏休みの課題についての話を聞いてしまった。昔から、夏休みの課題を早い目に済ませて8月の後半は気楽に休みを過ごすことが夢だった。というのも、特に小学生の頃は8月の最終週はいつも半泣きで課題と取り組んでいたからだ。先延ばしの癖を身につけてしまうのはこの夏休みの課題との取り組み方である、などということを大人になってから知って、それ以来、「先延ばし」は悪であるという意識が身についてしまった。とにかく早い目に仕事を仕上げることが善であり、後に回すことは悪という習慣が身についてしまった。それでも、先々取り組んでうまくいかなかったことも多々あり、じっくり時間をかけて検討することも大切であることも学んだのも事実である。
 昨日は、昼の3時に突然の「ゲリラ豪雨」が僕の住む東大阪を襲った。何が問題になっているかといえば、洗濯物が全部ずぶ濡れになってしまったのだ。朝に干した洗濯物が全て乾いている状態で、暑い最中の取り込みを避けたのだ。たった一瞬の「先延ばし」の決定が大問題を引き起こした。猛烈な雨の中、ずぶ濡れになる洗濯物を見つめている時の情けなさは、せっかくパソコンで作った書類が、「保存」を忘れて消えてしまった時のあの打ちひしがれた感覚だ。
 突然の豪雨が“夕立ち”と言われていた頃と、“ゲリラ”と呼ばれるこの頃を考えた。「夕立ちが通り過ぎれば夕焼けが」などと言っていた頃があったのに、今は「ゲリラ来た洗濯物に盾(タテ)は無し」。打たれっぱなしの洗濯物を呆然とみるばかりだった。今や夕立ちは戦争か…。

人間は「記憶の器」

2022-08-19 16:09:00 | 日記
「京都五山送り火」の様子をテレビで見たり、新聞の写真に浮かび上がった三年ぶりの「大」の字に、今年もまたお盆が終わって先祖の霊を無事に送り出せたことへの人々の安心感が伝わるように感じた。一般の焚き火であれ、五山の送り火であれ、火にはなぜか祈りを含めて心に届けられる独特の思いがある。亡くなった近しい人への祈りが届くような気がするのである。
 そんなことを想いながら昨年はどうだったのだろうかと、僕の出来事記録の日記帳をパラパラ調べてみると、一月先の9月25日の「ラジオ深夜便」の話が数行目に止まった。耳元でつけっぱなしになっていた小さな携帯ラジオの声がかすかに残っていて、ボーとした頭で、手短に記録しておいたものだ。別にお盆だのとの関係はないが、僧侶で歌人の福島泰樹(やすき)氏の出演記録である。“人は記憶の器である”という言葉が目に止まった。“人は死ぬとどこへ行く…他人の心の中に行く”などといった言葉がメモされていた。人間は必ず死ぬ時が来る。僕もその日が来たら何を思ってその時間を過ごすのだろうか。僕という人間がどんな人々の「記憶の器」の中に残されていくのだろうか。今は毎日仕事も離れて、自分ファーストの日々の中で、それでも過ぎ去った日々の記憶が時々気にはなるものだ。
 そう言えば福島氏の著書を読んでみようと思っていたのに、今日までほったらかしなんて。暑さやコロナの7波が落ち着いたら、「記憶の器」、大阪梅田の本屋さんにでも出かけてみよう。

夏の庭のイソップ物語

2022-08-16 16:20:48 | 日記
 先週末に蝉の声が聞こえなくなったことに気がついて、週が明けるとなぜかますます気になり出した。蝉の一生は短くて、1週間だとか、10日だとか聞くと、彼らのこの世の中での役割とはなんなのだろうと気になってしまう。何かにぶつかって、地上に落下、そのまま命を失って地上で冬の食糧をせっせと集める蟻軍団の餌食になる。今年はそんな蝉の哀れな姿もなぜかあまり目にしない。8月に入って猛暑が続くのと、何かの関係があるのだろうか。
 蝉の一生を考えると、いつもイソップ物語の「キリギリスとアリ」を思い出す。短い一生のキリギリスは綺麗な音色をできる限り外に知らしめて存在を誇示し、やはり、働き者のありの餌食で一生を終える。イソップの教訓を考えると、将来を見越して働く蟻たちと、短い人生、その日を精一杯生きるセミやキリギリス、どちらの生き様も一瞬の出来事だ。なぜなら宇宙年齢などと何万光年も先のことを考えると人間の一生も同様で、まばたき一つの時間なのだ。中世ヨーロッパの童話、寓話はキリスト教の価値観を子供達に教えるべく教訓や道徳を強調して今日につながっている。人間の生き様やあるべき姿(?)などを後世に伝えて、などと考えていると、やはり人間は共存共栄、お互いを尊重しながらこれからも長い長い年月を地球と共に生きていかねばならないことを教えられる。セミと蟻、キリギリスと蟻、彼らにとっての一瞬の夏の出来事と人の一生を重ね合わせて考えると、人間の世界での戦争だの、侵略だの、覇権争いなどと、つまらないイザコザを馬鹿らしいと考えない權力至上主義者がなぜか存在するのが不思議である。