学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

「負け」は君のせいではない

2022-11-29 16:36:17 | 日記
 テレビ、新聞はサッカーの話で大騒ぎ。ドイツに勝ったあの日から日曜日のコスタリカ戦とその盛り上がりは本当に尋常ではない。サッカーというスポーツはそういうものなのだろう。以前のラグビーのW杯でもそうだったが今回のサッカーの盛り上がりなどを見ていると商業主義におかされたオリンピックより、各スポーツのW杯の方が応援の盛り上がりがあるように思える。
 どういう訳か自分が甲子園に行くと阪神タイガースは負けるというファンがいる。なぜか勝ち負けを自分の責任かのように塞ぎ込んでしまうファンがいる。今回のサッカーW杯、コスタリカ戦で“日本が黒星”と新聞が伝える。あまりサッカーというスポーツをTV観戦しない僕が初めから終わりまで見た試合は日曜日の中継が2度目。結果は両試合とも負け(負けを自分のせいにしてしまう人からすれば、きっと僕が観たせいだ)。一回目といえばサッカーファンなら忘れることもできない1994年のカタール、あの「ドーハの悲劇」という言葉を生んだイラク戦である。W杯本戦出場を2−1でほぼ手中に収めていた日本チーム、何とロスタイムで同点に追いつかれ予選敗退の悲劇に見舞われた。僕がやっとサッカーの面白さを理解し始めた頃だった。勝ちと負けはいつも紙一重、どちらかが勝ってどちらかが負ける、引き分けということもあるのだが。そういう意味で、今回の試合はせめて引き分けて欲しかったというのがあるのだろう。サポーターたちの悔しがりようを見ていると、かつての「ドーハの悲劇」が目に浮かぶ。負けは自分を挑戦者にし、何が足りないのかを教えてくれる。障害物が大きければそれだけ勝利に味が出る。それが真の勝者を作る。テレビで見たサッカー狂のあの人へ、負けはあなたのせいではない。

「錦秋(きんしゅう)の候は詩的に

2022-11-25 17:26:03 | 日記
 わざわざ電車に乗って出かける公園がある。家を出てから大阪メトロ中央線で大体30分程度の距離になる大阪城公園である。大阪城を左に見て林の中を歩くのが好きである。「ベーカリー」と英語で書かれた看板のパン屋さんの野外のカウンターで、公園を行く人々を観察しながらビールを片手に太短いウインナーの乗ったモチモチのパンを食べるのが至福の時だ。同じパンとビールを持った外国人の老夫婦と一緒になった。仲の良さそうな二人の特別な時間を壊したくないと思いながら、帰り支度の二人にちょっと遠慮がちに話しかけてみた。イギリスからの観光客だという。僕がかつて数回訪れたことのあるリーズ大学で日本の歴史を学んだというご主人は「日本人は親切でいろいろ気遣ってくれるのが嬉しい」といった。隣で奥さんが嬉しそうにうなづいている。心地よい陽光の中での一瞬の出会い。それが秋というこの季節のひとコマだ。
 木々が並ぶ林の一角に銀杏並木が数十メートル続く道がある。黄色い葉っぱが時々風に舞いながら落ちている。気がついてみるとその小道は黄色い葉っぱで埋まっていく。「落ち葉」と言えば死んだ葉と捉えられるが、落ちてゆく途上の風に舞う様子はまるで人生を終えた喜びを身体中で表現しているようにも見える。詩的に表現すればそう言うことになる。一枚一枚の葉が気ままに風に吹かれて飛んで、偶然辿り着いた落ち着き先で人生を終える。海外旅行で残りの人生のひとコマを共有しようとしているイギリス人老夫婦の後ろ姿を追いながら、銀杏の黄色い葉が、まわり回って自分の落ち着き先を探して空を舞う様子が重なって見えた。錦秋とは紅葉が錦のように美しい秋という意味だ。

「行動人間」は否定語を否定する

2022-11-22 16:52:23 | 日記
 その日の新聞は切り抜かないで、一日遅れで切り抜きをするのが習慣だ。切り抜いてその日の新聞をグチャグチャにしたくないからである。切り抜きは全くしない週は切り抜きたい記事がないからである。先週分の切り抜きで思い出した。「大阪ひと語り」と題された記事である。東京から移住してきたフリーライター、スズキ・ナオさんの記事「観察、よそ者視点で」は僕が大切だと思っている精神が的確に表現されていた。「東京出身の自分はうまく大阪に溶け込めるだろうか」と不安をだかえながら大阪の取材を始めたけれど、徐々に新しい環境に馴染み始め、大阪を語る路上観察を記録し続けている。(著書:「『それから』の大阪」集英社新書、など)
 挑戦する精神、何でもやってみようの精神で行動に移すことが大切だ。行動を起こさない人の特徴は、面倒臭さがりで、なぜか失敗することを恐れてできない理由ばかりを考えて、行動に移すことをためらい、やめてしまうことだ。今日は雨が降っているから、日曜日だから、今日は寒いから、時間もお金もないから、などなどの言い訳、口実、弁解、などのオンパレード。
 アメリカに留学中に学んだ “行動人間たれ Be a doer!” を思い出した。じっくり考えて行動しないといけないことは人生には度々ある。しかし、“良し”と思いついたことはあまり先延ばしをしないで行動に移すことだ。やってみれば何とかなる。日頃僕が注意して避けるようにした言葉は「ちょっと待って」と言うことだった。日常の家庭生活では、頼まれれば「あとで」と言う言葉は極力使わない。勉強、仕事、何でも “ さあ、取りかかろう Now, let’s get to work!”が好きだ。

「立ち話」は時間の無駄使い?

2022-11-18 16:29:57 | 日記
 立ち話に適した場所と言うのがあるように思う。そんな場所を実際に調査研究したことはないが、体力が維持できれば一度は挑戦してみたい気はある。さて、我が家の家の向かいは処方箋薬局だ。前に止めた自転車を挟んで繰り広げられる立ち話を何度も目撃してきた。ママ友らしき同じ二人の立ち話の光景は何度か目にしてきたけれど、今朝は別の高齢女性のお二人だ。一般に立ち話というのは長いもの、15分、30分、今日のお二人はなんと1時間たってもまだ話は続いている。そんなに長く時間を費やせる話が何なのか知りたくなる。立ち話は女性の傾向のように言われるけれど、男性はどうだろうかと考えると、結局は同じ、立っていないだけでお酒を酌み交わしながら長々と話は続くのである。「そうだ、そうそう」と最終的にはお互い同意して終わるのだが、おしゃべりは同意だけではそれこそ時間の無駄遣い、時々異論があるから話は続く。
 またいつものくせで、アメリカではどうだろうと軽く英語の単語を調べてみた。噂話を含めての雑談や無駄話を チット-チャッティング(chit-chatting)、単におしゃべりは ギャッビング(gabbing), ゴシッピング(gossipping) は噂話や陰口の傾向が強い。アメリカにいるときには、一般におしゃべりはチャッティング(chatting)と言っていた。アメリカではほとんどの職場では仕事の始まる20〜30分はコーヒーを飲みながらの雑談だ。お互いの問題や心配事、関心事を話し合いながら親密度を高めていく。人間関係構築には「おしゃべり」は欠かせない、と皆が口を揃えていう。おしゃべりが得意な人と不得手な人はいるだろうが、「立ち話」は「打ち解け話」と言い換えてみると何となく人間味が滲み出てくるように感じる。お二人さん、どうぞ存分に…

雨の中を歩く

2022-11-15 16:29:51 | 日記
 日曜日、小学校では日曜参観が行われると言うことで、子供たちはいつも通り、黄色い帽子にランドセル姿で三々五々ひと塊になって登校していく。朝は話す気がしないのか黙々と学校への道を行進していく。時々日がさす曇りの空は午後には全国的に雨の予報である。案の定、12時を過ぎたころから大阪では雨が降り出した。子供たちの学校帰りはジトジトと降る梅雨のような雨、傘をさす子とささない子がいつも通りふざけ合いながら帰り道を急ぐ風景が見られた。だがその一方で傘もささず、ポケットに手を突っ込んで黙って歩く一人の男子が目に止まった。何か学校で失敗したのだろうか、親がこなかったのだろうか、などと勝手な想像をしながら見送った。
 アメリカのオレゴン州、ポートランドにいた頃、オレゴン人(oregonian) は傘をささないと町の人が言うのを聞いたことがある。オレゴン州に限らない、大体アメリカ人は傘をささない。車社会アメリカの生活は、小学校すらスクールバスが子供の送り迎えをするか、親がするかのどちらかだ。傘は売っているのだが、傘を購入する人は少ない。それでもアメリカにも雨という自然現象に関わる反応は日本であろうとアメリカであろうと、人間が住む限りどこであろうと同じだと言える。あのチャップリンが言った。“私は雨の中を歩くのが好きだ。誰も自分が泣いていることに気づかないから I always like walking in the rain, so no one can see me crying.” 戦争反対や、当時の社会情勢を憂いながらの言葉だ。日曜日の子供の後ろ姿に、「雨を感じる人もいれば、ただ濡れていく人もいる」、雨に歩く人を見ていると人の生きざまが見えてくる。