学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

影のない日光はない

2018-11-30 20:24:50 | 日記

昼間にテレビを見る機会が多くなった。退職、そして後期高齢者の仲間入りというお決まりのコースを辿ると日常にテレビは欠かせない。しかし、テレビを見ていると、特に芸能ニュース系の番組がいつまでも続く理由が分かるような気がする。次から次へと起こるいろんなニュースはそれにかかわる人達の仕事を次々と提供してくれるのだ。たとえ芸能人という公共の人達とは言え彼らの生活を根掘り葉掘り細かいことを調べて悦に入っている人達を見ていると、頭の中に(?)マークが飛び交っているのを感じる。
今週の出来事をメモしてみると、貴乃花の離婚から始まって、及川光博の離婚問題、辛口コメンテータの勝谷氏の死、日本コミュ―ターの機長の飲酒問題と話題に事欠くことはないのである。芸能人の井戸端会議的な番組や、彼らだけが楽しむ同窓会的な番組を作っている人たちの教養を疑う。たとえ芸能人とはいえ、個人の生活に土足で踏み込むような井戸端会議的な番組の切り口に同調することができない。この種の番組を作り続ける人達は自分の生活を完全だと思っているのだろうか。完全な人間など存在しない。

There is no sunshine that has no shadow.( 影のない日光はない) という格言があって、人が生きる道には、必ず光と影があるということだ。完全な人間などいないのに、コメンテーターがまるで自分は純粋無垢の完璧人間であるかのように人を批判をしたり、個人の生活に入り込む姿勢になぜか不愉快な気分になるのは僕だけではないと思う。

“汗”という漢字

2018-11-27 19:59:21 | 日記

日本漢字能力検定協会(漢検)が出している小冊子『「たった一文字」のプレゼント』という一文字コンテストの受賞作品集をいただいた。その中に「汗」という漢字一文字を夫に贈った妻のコメントがあった。夫婦部門の絆大賞とあった。コメントには“爪の間や指紋の奥はいつも真っ黒。貴方の努力の汗は私にとって幸せの汗です”とあった。油で汚れた工場での夫と言われる男性の仕事の様子が伝わってくる。
漢字は本当に便利な文字である。その一文字の中にいろんな情景や感情をこめることができるのだ。この小冊子の内容は漢字一文字を、友から友へ、夫から妻へ、自分から自分へと送る相手が自由であることが楽しい。贈られたその一文字を目にした瞬間になにか人生の大切なことを考えさせてくれるものを感じとれるのがすばらしい。
英語にするとどうだろうといつものように考えてみた。sweat(スエット)という単語がある。スエットシャツ(sweat shirt) のあのスエットである。‘メチャ頑張った’などを表現するときにも使われて、I’ve sweated blood over this report. (この課題のために血の出る努力をした)などとアメリカの学生などは使っている。
「汗」という語には何かを成し遂げるのに汗をかいて一生懸命になるというニュアンスが日本語にも、英語にもあるというのは嬉しい。なにごとも成功とは汗を流した分量だけの報酬であると思う。

自分から自分への一文字漢字を考えてみた。なぜかすぐに書けたのは「道」、「歩」、「健」の三個であった。若い時からの人生の道のり、それを歩き続けてまだまだ続く。歳を重ねてくると、やっぱり健康第一である。健康で自分の足で残りの人生を歩いていたい。

ビールの空き缶

2018-11-23 20:13:45 | 日記

閑静な住宅街にある我が家のすぐ隣に車数台分の小さな青空駐車場がある。ちょうど四つ角にあるその駐車場と道路を分けるのは樫の木が植わった小さな緑地である。その小さな緑地を囲むようにブロック二個を積んだ囲いがある。ブロック二個分の高さは人が座って休憩するのにちょうどいい高さだ。毎日いろんな人が数分ひと休みをする。
70歳前後のご婦人の二人連れは座り込んだらいつまでもおしゃべりを続けている。休みの日には子供の待ち合わせ場所にもなる。また学校帰りの小学生には格好の平均台だ。重いランドセルを背中に両手を広げてバランスをとりながら4~5人が一列になってそのブロックの上を歩く様子をながめているのは楽しい。
ところで、この休憩場となった木のそばのブロックに毎朝缶ビールの空き缶が一つぽつんと残されているのだ。夜の内に誰がそこでビールを飲むのかどうしてもわからない。空き缶は家に持って帰ればいいのに必ずそこに置き去りにしている。雨の日以外は夏であれ冬であれ、毎日この調子だ。このひと缶のビールの空き缶が置かれ始めてもう二年になる。近所の人だろうがいくら努力してこの人に会おうとしても、ここでこの人が飲む時間がまちまちで姿さえ見たこともない。道を挟んだ向かいの家の軒には自治会の防犯の監視カメラが取り付けられているが、そんなものを調べてその人を確認しても面白くないのでやらない。僕はこの空き缶を集めて片づけるのだがすぐにごみ袋がいっぱいになるほどである。
何故家で飲まないのだろう。とにかくこの不思議が僕の想像を駆り立てる。この人が家で飲まない、いや飲めない理由はなんだろう?
次々と湧いてくる興味と想像を楽しもうと心に決めた。現在もまだこの空き缶の片付けは続行中である。Enjoy the world around you.(周りの世界を楽しもう)。さぁて、あと何年続くのだろう?

音楽を身近にBe happy!

2018-11-20 20:08:49 | 日記

BSのテレビで「空港ピアノ」、「駅ピアノ」という番組がある。空港で飛行機への搭乗前のひと時に、また列車の待ち時間のひと時に、人が弾くピアノの音色が広いロビーに響き渡る。
沢山の人が行き来する中で誰でも弾けるピアノがロビーの中央に一台、ポツンと置かれている。
イタリアはシチリー島の空港ピアノはバカンスを楽しんだ人が弾くことが多い。そしてアメリカではロサンゼルスのユニオンステイションの駅ピアノ。先日はホームレスと自ら名乗る男性が見事に鍵盤を打っているではないか。オランダのアムステルダムの駅ピアノは移民の男性が『エリーゼのために』を奏でながら天井を見つめて何かを思い出しているようだ。チェコのプラハ駅では留学生が自分の国の歌を弾いていた。自分は孤児院で育てられたと彼は言った。音楽は自分を癒してくれる、悩みを忘れさせてくれる、などと口にする人が多い。僕が驚くのは見かけはピアノと結びつかないようないでたちの人が、ふと立ち止まってピアノを見事に弾く様子である。
I get the self-confidence by playing the piano. (ピアノを弾いて自信を感じる)という人もいた。ピアノを弾きながら自分を感じ、音色に溶け込みながら自分自身に自信を与え、そして幸せ感を実感できると言う人もいた。音楽を身近に感じることのできる人は幸せだなぁと思う。ピアノと共にBe happy!(幸せでいよう)という人もいた。

それにしても外国の人達のピアノを弾くという行為のこの気楽さはどこから来るのだろうか。日本ではピアノを弾くという行為は何か特別なもので、小さいころからピアノの先生について教えられ、経済的余裕のある家庭の人しか弾かないような雰囲気がどこかにあるのが不思議である。


行動は知識を増やす

2018-11-16 19:58:10 | 日記

最近のアメリカの小学校では頻繁に美術館や図書館、地域の歴史的な場所に子供を連れ出すことが多くなったという話が突然アメリカの友人から舞い込んだ。理由の一つは子供たちがじっとして話を聞いたりすることが出来ないという。集中できる時間が昔と比べると極端に少ないのである。すぐに飽きてしまう体質はどこで生まれたのだろうか。
日本の子供達も同じ傾向にあるというのは、僕の想像ではテレビゲームが原因だと思っている。忙しく手元のリモコンを操作しながら一喜一憂している孫の姿を時々目にするからである。じっと人の話を聞くことが苦手で、動く何かを常に追う作業をしていないと飽きてしまうのだと思う。
大人の世界でも同じことが言えて、最近の映画の忙しさ。ちょっと画面から目をはなせばストリーが大きく展開していることに気付く。

長年、学校という場で日々過ごしてきた僕は、学校とは、教育とは、などと考えてきた。授業時間を“じっと我慢の時間”にしてしまったのは誰か…?先生の授業力?子供、生徒、学生の集中力の変化?…いろんな原因があるだろうが、情報の溢れる時代と共に学校の授業のあり方も変化していかなければならないと考えている。学ぶ楽しさのようなものを教えるためには子供を課外学習に連れ出すということも一つの打開策である。子供に集中力を教えなければという人もいるが、子供は好きなことには教えなくても集中する。
退職して、することがなくなった人達がボランティア活動をしたり、街歩きをしたり、美術館に足を向けたりするのは、行動することから学ぶことが多いからだと思っている。若い時に忙しくてできなかった学習法なのだ。