学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

社会は何処へ向かうのか

2020-05-29 19:39:40 | 日記
相変わらず自粛と3蜜を避けるための方策についてテレビは多くの時間を割いている。自粛も3蜜もこれからの生活には要注意事項であるが、なんとなく聞き飽きた感じで食傷気味である。人間は本当はおしゃべりの時間が大切で人間関係を豊かにしてくれる基本である。人と人との接触の密度がある意味では精神的な余裕や生活の安定感を我々に与えてくれている。それが許されないから全く新しい発想で日常に対応していくことが要求されている。電車ではつり革を持たない人が増えてきたり蜜を避けて周りの人との距離ばかりを気にする人も増えてきたという。
パンデミックは今回の新型コロナウイルスとの戦いが初めてではない。なんとか緊急事態宣言も解除されてアフター・コロナの生活を真剣に考えなくてはならない。歴史で学んだ14世紀の黒死病はヨーロッパの人口の3分の1が命を失ったと伝えられている。これを機に人々が労働力不足を補うために都市への大移動が始まったという。16世紀には天然痘。日本でもよく知られているインカ帝国を滅した原因だとされている。免疫のないインカの人々の大半が命を失ってしまった。19世紀のコレラは公衆衛生意識を高めヨーロッパをはじめ日本の東京でも下水道建設へと繋がっていった。20世記初頭のスペイン風邪は今回のコロナと同じように学校の休校やマスクの意識の高まりを生んで、医療制度の見直しと国民皆保険の設立につながっていく。忘れた頃にやってくる感染症の恐怖は避けられない試練なのだろうか。それでも試練や苦難を乗り越える過程で社会に大きな変革をもたらして上述のように人々の生活は改善されてきた。
今回のコロナは社会をどのように変えていくのだろうか。なんとなく見えてくるのはオンラインを利用した生活の変化だろうか。遠隔操作が可能な“在宅勤務”、“ICT教育”がそれである。マスクと手洗い、そして他人との距離を保つことが習慣になってきて社会はどこへ向かうのか…。
(注)ICT = Information and Communication Technology (情報通信技術)の略

新発想が人生を拓く

2020-05-26 16:06:19 | 日記
先週の土曜日に兄弟で2ヶ月ぶりにお昼の飲食を楽しむ機会ができた。自粛が解除されたこの機会を利用して思い切って僕の住む東大阪で合流したのである。レストランでは人が蜜にならないように間隔をとっていくつかのテーブルの上には「座らないでください」という紙が置かれている。働く人たちの人数も減ってなんとなく活気がないように見える反面、ゆったりとした雰囲気が楽しめた。テレビのニュースでもこのようなお店が頻繁に登場するようになって特に違和感はない。
アメリカでは“ New Normal(ニュー・ノーマル)” という言葉が盛んに使われているらしい。ノーマルとは標準、正常、通常、などと言った意味なのだが僕は“新しい日常”と訳すことに決めた。コロナウイルスとの共存を考えなくてはならなくなって、密接や密集を楽しんだ数ヶ月前の日常に帰ることは少なくともしばらくは期待できない。
模索、知恵、工夫の三つを足算すると何か新しい生活様式を見つけることができるかも知れないと僕は考えている。日常を取り戻そう!(Let’s bring things back to normal! )と叫びながら人々は新しい日常をああでもないこうでもでもないと模索しているのである (People are fumbling around for “ New Normal”.) fumble という単語を使ったのは野球などでボールをファンブルして慌てている選手の様子が、コロナの自粛解除で人々がいろいろ模索しながら慌てている様を表現するにはピッタリだと考えたからで自己満足している。
自粛で休業している間に知恵を絞ってお店のレイアウトなどを工夫して新しい経営法を考えた居酒屋がある。ビールのタップを開放して、飲み放題のカウンターを作った店があるのだ。ビールを運ぶウエイトレスさんが必要でなくなるし、おかわりの度にジョッキを洗う必要もない。人件費の節約に成功したばかりでなく、交換の度にジョッキを洗う水も節約できる。新しい日常に向かって新しい公式を考えた。『模索(新発想)+智恵+工夫=成功』、街に出て工夫を探そう1

キッチンカー

2020-05-22 16:51:27 | 日記
特別定額給付金を狙った詐欺が横行し始めたというニュースをテレビで見てなんとも言えない落胆を覚えたと思えば、マスクの不良品や大手メーカーの類似品などが出回っているということを耳にしてまた落ち込む。コロナで一儲けなどという有象無象(うぞうむぞう)の輩(やから)が普通に暮らす善良な人々を悩ます。日本人の一部にいつからこんなに人の信用だの信頼を裏切ることをなんとも思わないような人が存在するようになったのだろうか。
有象無象という言葉を調べてみた。「有象無象の人々、有象無象の集まり」などというように使われる。国語辞典を引いてみると「種々雑多のつまらない人々。有形無形の一切のもの」などという定義が示されている。英語ではこの種の人達を riffraff(リフラフ)とか rabble(ラブル)という。リフラフは品行の悪い人で自分の周りにはいて欲しくない人、ラブルは問題を起こすような人の一団などと定義が具体的である。僕はアメリカにいた時に不良グループのような若者のことを They are good-for-nothing.(何の役にも立たないつまらないやつら)と人は表現していたのを覚えている。何となく的確な表現で英語を学ぶ上では覚えやすいもので面白い表現だと思っていた。世の中の苦境を悪用して実態のない会社などを作って偽物や模造品などで一儲けを企んでいる人達がこの有象無象のグループに入る。我々の身近にいると思うとなんとなく気が重い。
一方で、そういう人達とは対称的にこの苦境を乗り越えるためにいろいろ工夫をして頑張っている人がいる。キッチンカーで弁当を売る移動販売の人たちだ。かつてはオフィス街のサラリーマンを対象にお昼の弁当を販売していた人が、団地やマンションに出向いて在宅勤務をしている人達の昼ご飯を提供して和ませている人達である。なるほど、オフィスから消えた人々は家で仕事をしているのだ。奥様方が三度の食事の用意に悩まされている折に、キッチンカーは面白い。どんなところにも隙間ビジネスは存在するのだ。工夫する人の存在を知るのは嬉しい限りだ。

自粛時間にちょっと一考

2020-05-19 17:25:36 | 日記
僕が住む東大阪市の中小の規模の町工場で新型コロナに対応するための工夫をしている工場の話をテレビで取り上げていた。僕が好んでみるタイプのニュースである。自粛の期間を利用してなんとか倒産や業界からの消滅を避けようともがきながら自分たちができる最低限の工夫を重ねている職人さんや工場がたくさんある。そのような折、僕が特に興味を覚えたのは段ボール製品を世に送る元気いっぱいの「マツダ紙工業」という会社である(この会社、別に倒産の危機にあるのではない。念のため)。大きな段ボールの一枚を切り抜いて、空間に透明のビニールを貼り、切り抜いた部分を利用してつい盾の台を作りウイルス飛散の対面対応を避けるための“仕切り”を作った。僕はこの会社の工夫の妙味に惹かれたのだ。コロナ感染が広まるこの時世に、まさに必要は発明の母、窮すれば通ず…ピンチをチャンスに変えるという種の発想である。
「自分にしかできない技術を手に入れることで人が陥る被害者意識からの脱却が可能になる」というプラス思考の考えがある。被害者意識を前面に出して今のコロナ禍を生きる人が浮上することはない。「人は助けてくれない」と嘆いてばかりで自から工夫して働きかけねば何も起こらない。実際、そんな考えで支援をくださいと訴えている人が僕の友人の知り合いにもいるのだ。
さて、苦境を乗り越えて生き抜く力を見出す「工夫」の原点はどこにあるのだろうか。「なんとかしてみせる」と強い信念のようなものを持っている人に共通した考えがある。「自分ができることに没頭する」「どんなものにも工夫の余地はある」、と言ったような考え方である。
“自分の内に持つ光(ひらめき)は自分と他人との違いを作る要素である(The light we have inside is the element that sets us apart from everyone else.)”最初の主語の「内にある光」とはなんだろう。それは「なぜか自分が自信を持っているもの」「他人との違いを感じるもの」「自分が飯よりも好きなもの」「自分がやっていて一番幸せに感じるもの」「できれば無性に将来やってみたいもの」などと僕は考えている。自粛で時間のある時にちょっと一考。

自粛解除…大丈夫?

2020-05-15 15:53:58 | 日記
世間では緊急事態宣言の解除に向かって徐々に動き始めているようだ。大阪でも店の休業解除も見えてきた。早く元の日常を取り戻したいのは誰しも同じ、社会活動を取り戻すために本当に用心しながら前を向いていきたいと思う。用心を強調する理由は、ほんのちょっとした気の緩みが大事に至ることを何度も目にし耳にし、そして自分自身も経験してきたからだ。事故が起きるのは気の緩みが原因だとよく言われる。子供の水泳の練習や自転車乗り、久しぶりの公共交通機関の利用での通学や通勤、いずれも慣れ始めた時や急な習慣の変化で事故が起きる。
またこんな話も。昨日のテレビではクリーニング店が急に忙しくなってきたという。季節的な衣替えの意味もあるのだろうが、久しぶりに出勤という人がワイシャツなどをクリーニングに出しているのだと思う。ただ、ボケットから出し忘れたハンカチ、マスク、つま楊枝にお店は困惑気味であるという。それらには新型コロナウイルス付着の疑念が拭えないというのだ。自粛解除とともに今まで気にもしなかったことがやたら気になるようなことが起こってくるだろう。
さて、対面重視の社会活動の中で生きてきた僕たちの時代が3蜜を避けての生活へ変わってしばらく続いてきた。また元の対面を大切にする働き方にどの程度戻れるのだろうか。3蜜ならず “「3会」を避ける”と言う言葉が「ビジネス界」での新しい働き方の方向であるなどと聞いた。つまり「3会」とは、会話、会議、会食、を自粛したり避けたりすることを意味するらしい(無駄な “会” も多いことを指摘しているようにも思える)いずれにしろ、新型コロナと自粛の運動はいろんな新しい言葉を生み、人々の行動パターンの変化を生み出した。とにかく人と人の距離が気になるようになったため、人間関係が疎になることに慣れ過ぎてしまっているような気もする。ハイタッチや握手ができなくなっているのだ。僕は付き合いが悪いので…などと言っていた友人はきっと「コロナ禍で つきあい下手が 長所となり」などと微笑んでいるのでは。