学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

「防犯カメラ」は語る…

2022-02-25 17:50:21 | 日記
 寒い日が続く中、我が家のそばで防犯カメラの設置工事が始まった。その地点に立って周りを見渡してみると視野には3台のカメラが確認できる。なんとも物騒というか、情けない時世になったものだと改めて感じさせる。人を信じるという意味では英語では believe ではなくて trust(トラスト) が当てはめられる。人を一人の人間として信頼がおける、信用できるという意味だ。つまり防犯カメラは人を信じられなくなってきたことを暗示しているように思えた。
 先日の夜9:30頃、家の前の道路が騒々しい。宅配トラックの運転手さんがどうやら電話で警察と話しているらしい。状況を確かめるべく話しかけてみると、電柱の影に座り込んでいる60歳過ぎのお婆さんというかおばさんというかの女性を指でさす。酔っぱらていて数メートル前にはカップ大関の瓶が二つ、体は電柱にもたれかけているという状況だ。道路を四つん這いで這っているのを運転手が見つけて警察に通報したということだ。そのままその酔っ払った婦人をそこに置いておいてくださいという警察の指示だったという。僕がその婦人と話すと家は400メートルほど北に進んだ突き当たりだという。近所だ、ならばと僕は腕を抱えながら家まで連れて行くと自分からドアを開けて家に入っていった。安心したちょうどその時警察官が二人やってきた。今度は僕が状況を説明すると、なんとなく余計なことはするなという二ワンスの軽い注意を受けた。途中で何か体調の変化が起きてもいけないし、連れていった家の中で予期しない取り返しのつかないことが起きるかもしれないということだ。なるほど、親切も大変な事態を生み出すかもしれない。近所に住む人すら知らない人がいる、と反省した次第である。「他人を思いやることで他人は君を好きになってくれる」などということは遠い昔の物語かもしれない。

2022年2月22日午後2時22分

2022-02-22 14:48:18 | 日記
 陽だまりは春を感じさせるのに風は冬のまま、そんな天候が最近の数日の様子だ。北海道では暴風雪が暴れている。幸い大阪は冷たいやや強い目の風が悩ましい程度で済んでいる。文句は言えない。英語の "Spring is just around the corner.(春はすぐ角を曲がったところまで来ている)”、春はもう目の前だ。巷でも春を待つ声が多く聞かれる時節になってきた。
 そんな中、西郷輝彦が75歳で亡くなった。僕達の世代の若い頃の御三家と言われたアイドル歌手だ。以後、俳優としても活躍した人なので今の若い人もよくご存知の人だ思う。自分が若い頃に活躍した著名人や芸能人が亡くなる記事は歳を感じている世代にとってはちょっとした心的影響を及ぼす。子育てに励んでいる娘や教え子と話していると彼らの目が未来に向かっていて話が期待や不安が入り混じりながらも楽しみに溢れている。自分に目をやるとやはり残りの人生のカウントダウン、あと何年元気で生きれるだろうかと考えてしまう。
 ちょうどそれは、若い人にとっては空飛ぶ車だのリニアモーターの新幹線、と話が弾む中で年寄りにとっては単なる夢物語のようなもので、自分がその恩恵を受けることはまずないし全くの他人事だ。短い残りの人生に必死になって前を向いているだけであることを思い知らされる。
 人生を一本の直線で左から右への矢印で表すと、適当なところで今、現在に点を打ち、左半分は過去、右半分は未来だ。年寄りにとっては左半分だけが長くて先っぽの矢印までの右半分が日々どんどん短くなっていく。他人に元気をあげられる明るい老人でいたい。今日は2022年2月22日、目標の午後2時22分にブログを書き上げて興奮している老人がここに居る。やったー!

親切の結末は見えないけれど

2022-02-18 16:04:37 | 日記
 寒い日が続く。テレビに映し出される雪国の人たちの生活を見ているとその厳しさに言葉がない。それでも地域の人たちがお互いに助け合って雪かきの手伝いをかって出る姿は素晴らしく、都会の多くの人たちが忘れてしまっている親切や他人への思いやりが呼び起こされる。僕の住む大阪では雪が積もるなどという風景は最近は全くみられなくなって、この数日の寒さはただひたすら寒い、冷たいという表現以外に情緒的な言葉などが入る余地がない。
 親切、心配りと言えば最近は電車内でのルールを守らない人が増えているのが気がかりだという新聞の投稿。老人に席を譲ってあげようともしない若者は大抵の場合スマホに夢中だ。電車内でのスマホを使った電話もしかり、社会的ルール違反で周りの人への配慮というものが感じられないとの指摘である。僕はといえば最近はコンビニに入る際にはマイバッグを持っていくということにやっと慣れてきたけれど、購入した商品をレジと同時に袋に入れてくれる店と、「はい、レジを終えました、どうぞ自分で袋にいれてお持ち帰りください」と言わんばかりの店があり共通した接客ルールはないのだろかと戸惑うこともしばしば。やれやれとがっかりすることも多い。
 親切や思いやりとはその種類によって人はすぐに忘れてしまうような儚いものかもしれないけれどその気になれば誰でもができること。でも最近の社会の傾向を見ていると小さな親切運動をもっともっと声高に喚起する必要があるのかもしれない。小石を池に投げ込むと波紋が広がっていくように“他人にちょっとした親切を (Be a little kinder.)”

商売の当世風

2022-02-15 16:28:20 | 日記
 人生は、挑戦ー失敗ー工夫ー成功、の繰り返し。オリンピックの報道を見ているとハッキリとその縮図が見えてくる。成功もまた新しい挑戦を受けて決して安泰ではない。それが人生なのだ。
街の面白い看板や新発想の工夫などを探して歩くことが僕の街歩きであったのだが、最近はコロナだのオミクロンだので外出する機会が滅法少なくなって新聞や本からの情報がかなりのウエイトを占めるようになってきた。情報を手にしてから現場に確かめに行くというやり方だ。
 コロナに振り回されて商売をしている人たちの最近の工夫は何かに挑戦して失敗したという前述の流れではない。たとえば遊休資産の有効利用だ。空きの目立つ大型店の広い駐車場を月極で貸し出すアイデアが注目を浴びている。コロナで公共の乗り物を避けて自動車で仕事に出る人たちが増えてきたという風潮に目をつけたアイデアだ。キッチンカーが人気だという街の傾向にはそれらの移動販売車を一堂に集めてのイベントを催してみたりと工夫が満載である。 
 我が家からは少し離れているが東大阪市の布施商店街ではシャッターが降りた店を巻き込んで「街ごとホテル」という新企画が実際に動いている。ホテルのフロントや客室が一ヶ所にあるのではなく商店街のあちこちに点在しているというやり方だ。商店街には街の風呂屋さんあり、夫婦で経営する食堂や喫茶店ありで宿泊客が自由に歩いて飲食と会話を楽しめる。観光のあり方も全国の名所を回るものから地方の特色を体験する素朴な観光に変わってくる。パンデミックという大きな流れで商売が立ち行かず悩むから大ごとになる。発想を変えて先ずは工夫、それが“今ふう”になってきた。

忘れられた"心豊かな人”

2022-02-11 17:24:21 | 日記
 午後3時過ぎに我が家の前の道を小石を蹴りながらそれぞれの家に向かう4〜5人の小学生のグループがいる。どこから小石を見つけてくるのか分からないけれど浅い溝に毎日子供のこぶし大の小石が落ちている。道路の直角の曲がり角をうまく小石蹴りをコントロールできないのだろう。火バサミを持って溝掃除をするのが最近の日課だ。少しは注意をしたいのだが僕達が子供の頃も石蹴りで遊んだものだ。しばらく続けると飽きてしまうことを期待している。“ちょっとだけ他人のことを考えるのは心豊かな人”と学校で教えられたことが今でも生きている。
 そんなことを考えながら子供の躾に名を借りて児童虐待を繰り返す親がいることがふと頭をよぎった。子供の頃に何かが足りなかった親が虐待を繰り返す。何が彼等の生活に不足していたのだろうか。どこか心の根の深いところで自分を愛していない人は他人を愛することができないと言われる。他人に心配りをする余裕がないのだろう。
 社会の制度の不足も見逃せない。児童虐待を知りながら児童相談所が親権尊重の考えから保護が遅れて惨事に至るケースや虐待を繰り返す親に対する監視指導体制や治療が不十分なことも挙げられる。今回僕が気がかりなのは児童虐待に関するテレビやラジオの報道だ。「熱湯を…」「鍋の上に立たせて…」「長時間裸で…」などなど微に入り細に入りの報道で気分が悪くなってしまう。仕事とはいえ原稿を読むアナウンサーは心的に大丈夫なのだろうか。ニュースなどで悲惨な子供への虐待の話が始まれば僕は音を消してしまう。黙って聞いていることができないのだ。報道のあり方をなんとか考えてもらえないだろうかと常々考えている。性善説を信じてきた僕、「弱いものを見たら助ける精神」や教育がどこかに置き去りにされてきたのだろうか。