学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

最良の日とは

2020-10-30 17:03:42 | 日記
昼間にウトウトと目を閉じる時が増えてくるのは歳をとった証拠であると言う。昼間のウトウトは短い時間なのだが本当にぐっすり眠ることができる。それに比べて夜の眠りはどうかと言うとぐっすりとはいかず、夢を見たりしていて時には眠っているのか起きているのかわからないような睡眠状態の時がある。瞬間的には眠っているのだと思うが眠りの質の悪いことが自覚できる。僕の場合、そんな夢はどうも何かに失敗して焦っているような夢が多くて本当に困ったものだと思う。夢にはどうも学校に関するものが目立って多くて、宿題を忘れて焦っている状況や、テストでまったく何もかけなくて白紙で提出するような状況に陥って焦って目が覚める。自分が教える側の生活が大人になってからの大半の人生だったというのに何故か学校という状況の中での失敗と焦りの夢が多いのは不思議な現象だ。
アメリカ生活は家族がいて大学の勉強と仕事で毎日が大変だったのに失敗も含めて嫌な夢はほとんど見ることはない。一生懸命の時は生活が充実していて変な夢など見ている暇がないのかもしれない。歳をとって暇ができるに従って嫌な夢を見たりするのは不思議な現象だと思う。大学で学生に教えた英文がある。“Failures strengthen you and spur you on! (失敗とは自分を強くし、ハッパをかけてくれるもの)” と黒板に書きながら自分にも再認識させていた頃を思い出す。spur(スパー)という単語は西部劇などで馬を急がせたり拍車をかける時に用いられた単語で、人をせき立てたり、ハッパをかけたりしてその気にさせる時に spur 〜 on の形で用いられる。野球などで選手のミスが勝敗を分けることが新聞沙汰となる。失敗した選手は誰よりも「くそ〜!」と思っているに違いない。少しでも試合で活躍するために失敗を利用して自分を駆り立てる気力のある者にはいつかきっと大活躍できる日がやって来る。スポーツに限らず失敗を糧(かて)に成功を掴んだ人は枚挙にいとまがない。「人生最高の日は過去にはない。真の最高の日はこれからの明日にある」と信じていれば残りの人生に向けて自分にハッパをかけられそうな気がする。若者であれ年寄りであれ、「最良の日」はもう過去のこと、などと考えれば人生は終わりである。

賞味期限と消費期限

2020-10-27 16:55:43 | 日記
病院やクリニックのそばには調剤薬局が入っている大型のドラッグストアがあることが多い。広い駐車場を持っていて車でも立ち寄るのには都合が良い。中に入ってみると当然市販の薬を中心に化粧品や歯磨ペーストなど日常品が手軽に手に入る。特に驚かされるのがまるでスーパーの一部かと思わせる食料品の売り場である。僕のように歳をとって高血圧の降圧剤などの処方箋を医院でもらって立ち寄る人は多いようだ。ある意味ではその辺のコンビニを凌ぐ便利さである。
先日女房と一緒に立ち寄ったドラッグストアの食品コーナーでバン選びをしていた時に、何故か金曜日の昼というのに小学生が僕の横に立って一つひとつパンの袋を調べながらカゴに入れている男の子がいた。彼から少し離れたミルクなどの売り場から若いお母さんらしい女性が「賞味期限を調べてねー」と声がかかっていたのに反応していたのだ。僕もつられてパンの外装紙を調べていたら全て「消費期限」と記されていて、「賞味期限」とは書かれていない。パンから賞味期限の記述はいつ消えたのだろうか。味を保って美味しく食べられる期限が賞味期限だ。消費期限は製造日から考えて傷みやすい食品などを安全に食べることのできる期限である。
そんなことを考えていると、ものには全て期限があっていつまでも続くものはない。人間も自分の賞味期限と消費期限があることを自覚すると時間の重要性がにわかにクローズアップされてくる。ただし、人間の場合には歳をとって味の出る人もいる。映画俳優などを見ているとそれがわかる。僕の女房に言わせれば、ショーン・コネリーなどはいい例であるらしい。僕も後期高齢者になってこの種の言葉に敏感になったのかもしれない。僕と言う人間の期限(?)はいつに設定されているのだろうか。名言の記された昔のカレンダーを後生大事に僕は保管している。“時間の使い方の最も下手な者がまずその短さについて苦情を言う” というところに印がつけてある。時間の使い方のまずい人間になってはいけない。「時間の有効利用こそが日々の充実を決定する」ともう一度自分に言い聞かせる。

熊とドングリと郷愁

2020-10-23 16:15:56 | 日記
石川県のあちこちで熊が山から降りてきて人々を慌てさせているという。人の住む領域に出没した熊が先日20日県警機動隊に駆除された。駆除という言葉がなぜか僕の心に重く響く。生命のあるものを殺処分するという意味だから。駆除、仕方がないのかしれないけれど、何とかならないものなのかなぁ。今年は熊の主食のドングリが山で不作であるという。熊も生きるためには食べ物は必要だ。人間のスーパマーケットは格好の食糧調達の場である。高槻市に住む弟(弟といっても前期高齢者)が朝の散歩を兼ねた運動に天神さんの階段の上り下りを利用している。先日の台風の通過後にドングリをつけた小枝が風にちぎれて落ちていたと彼は言う。それを拾って家に持ち帰るとなぜか心が落ち着いたと言ってLINEで写真を送ってきた。(念のため断っておくが彼の主食はドングリではない…#▲$%?)
      ♬ドングリころころドンブリこ  お池にはまってさぁ大変
       ドジョウが出て来て今日わ  坊ちゃん一緒に遊びましょ♬
…と歌っていたかどうかは定かではないがドングリの実は何故か僕たちの年代には幼い頃の郷愁を呼び戻す。どうでもよいような小さいものを見つけては一人で悦にいって喜びを覚えると言う経験は誰でもあるだろう。英語で “小さいことを見つけてその日を特別なものにしょう Find a small thing on the street and make your day special.” と表現できるのであるが、特別な1日を作るのは各自一人ひとりの心の持ちようであることを忘れずにと思う。僕の場合はアメリカ留学中に大学構内の教会の前にあるコンクリートの歩道のひび割れから芽を出して黄色いタンボボの花が一輪咲いているのを見つけた時だ。表現できない喜びを感じたのは人々がその花を踏まないように避けて歩いていたのに気づいた時だ。

ニコニコ顔は元気を作る

2020-10-20 15:11:41 | 日記
日曜日のよる、たまたまつけたテレビの『ポツンと一軒家』という番組をみていて気づいたことがあった。内容は先生と呼ばれる93才の山中深くにあるすでに閉校となっている小学校の元先生と79歳の共に一人暮らしの女性の物語。都会に住む我々からみると熊本の人里離れた山中に住む数人の人々の暮らしは多分不便なものだろうと推察するが、彼らにとっては桃源郷、自分で楽しみを作りながら畑仕事をしながらの自給自足の生活である。僕の気づきは彼らが生活を楽しんでいる姿勢で二人はいつもニコニコしていて元気なのである。
アメリカ英語に Smiling — it is a bona fide* face-lift. (ニコニコすること—-それは真の美容である)という表現がある。以前、どこかで怒りの顔と笑いの顔を比較すると、怒りや不機嫌顔をする時は笑っている時より沢山の筋肉を使っていて疲れるので徐々に老け顔になってくるという話を聞いたことがある。ニコニコ顔は フェイスリフト(face-lift )、つまり顔の筋肉を持ちあげて元気にも見えるし人に与える印象も良い。僕は以前、学生から「先生、授業中はいつも嬉しそうですね」と言われて一日中心ウキウキ嬉しくて楽しくて仕方なかったことがある。ちょっとしたひと言が文字通り一人の人間のその日の精神状態を「陽」に変える力がある。
ニコニコ顔と切って切り離せないのが“目”である。「目は口ほどに物を言う」という諺は誰もが知っているものだ。表情は必ず目の輝きに反映されて、二つの要素が合体して人と人の距離にまで影響を与える。目と目がタイミングよく合えば楽しい会話ができるけれど、視線を外してばかりいると何か後ろめたいものがあるのだろうかと疑心暗鬼の状況が生まれてしまう。人間関係をスムースに構築するために、表情のことや視線のことをいちいち考えながら会話はできない。一番簡単で誰にでもできることは日頃から楽しい心の状況をたくさん作ってニコニコと人に接することなのだ。

注)*ボウナファイド bonafide “本当の、誠実な” などの意味を持つ単語なのだがなぜか分けて bona fide とし形容詞として使われる。ラテン語だからかなー)

立ち話

2020-10-16 17:31:31 | 日記
なぜかこの頃「立ち話」をする人を見かけることが多い。僕の家の前の道を挟んで向かい側に薬局があって、幼稚園児を連れているママ友らしき若いお母さんが店の前での立ち話に夢中になっているのをかなり頻繁に見かける。子供への注意が疎かになるのでいつも気にしてしまう。子供は熱を出したり、下痢をしたり、咳をしたり、怪我をしたり、母親に余分な仕事を与える天才である。僕が目にする立ち話は大体15分程度の時間をかけているものを言っているのであるが、昨日は50歳ぐらいの二人の女性が僕の家の横にある電柱のそばで何と50分の立ち話に興じていた。話の内容はよくはわからない。理由の一つは僕の耳の聴力の低下、もう一つの理由は盛んに話している女性の方がマスクをして声がこもっていたからである。聞き手の女性はマスクをしていない。ディスタンスもとっていないこの二人、コロナの感染は大丈夫かなと気にはなるし、何となくヒソヒソ的な声が聞こえてくるので大袈裟だけれど神経に触る。折角の秋晴れを庭で楽しもうと思ったが何度も家の中に逃げ込んだ。つまり何度も庭に出たのだがいつまで経っても立ち話が終わらない。このような立ち話の状況はコロナが人々から奪ったと思っていたのだけれど。
またまたいつものように趣味の英語表現を考えてみると、「二人の女性が道で長い間お喋りをしていた (Two women were chatting on the street for hours.)」となるのだが、英語の辞書を調べてみると、例文が必ずと言っていいほど女性が主語になっているものが多いのだ。何となく性差別的な匂いがするが、やっぱり立ち話やその立ち話が長いのは日本に限らず女性の特技なのだろうか。“女性”と十把一絡げ(じっぱひとからげ)にしては良くないと僕は理解しているので辞書のこの点の扱いは少し気にはなるのだが。ま、僕が言いたいのは電話であれ、立ち話であれ、あまり長いのは何となく見た目にもあまり良くないように思うのだ。いずれにしてもこのご時世、立ち話とは言え長話、マスクの装着は礼儀だと思う一方で、思い切り会話を楽しめる時は戻ってくるのだろうか。周りのディスタンスが気になるのも疲れる社会生活だ。