学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

僕の街歩き今昔

2019-07-30 17:36:11 | 日記
半世紀以上も前、初めてアメリカの土を踏んだ時の興奮を忘れない。細かいことは思い出せないのに身体中に湧き出てくる精神的な昂揚が今も湧き上がってくることがある。夜、睡眠中に夢を見てその興奮がよみがえってくるのである。人はきっと若い時の強烈な刺激を忘れられないのだろう。英語をしゃべりながら目を覚ますという不思議な快感もある。
最初に降り立った町はサンフランシスコ。そこから大陸横断バスのグレイハウンドバスで東に、ミズリー州までの長旅だ。車窓に広がる広大なアメリカの大地、州間高速道路のI-80である。ただただアメリカ西部の広大さに言葉もなく見とれていたのを思い出す。何とも言えない孤独感を味わったのもまたこの時である。
なぜこんな話で書き始めたかというと、ふとその好奇に満ち溢れた若き時代の興奮を思い出したからである。BSテレビでは盛んに外国の町の“街歩き”という番組を放送している。放送に気付けば出来る限り見逃さないように見ている番組である。なぜか昔を思い出して元気がでてくるというのが理由である。町の観察、人間観察など、“好奇の目で周りを見る時間をもてTake time to look around you with the eyes of newcomer.”と言う言葉が若い時の元気を呼び起こしてくれる。
ところで、最近は大阪での人間観察にいわゆる違和感というものを感じるようになった。人の生活の姿勢というか、そういうものに違和感を感ずるようになってきた。先日の街歩き、犬を乳母車に入れて散歩する初老の婦人と信号待ちで隣り合わせになった。「暑いのにたいへんですね」と僕。きっと犬の体調が悪いのだろうという推測からの声掛けである。犬が可愛いことも忘れず付け加えた。この初老の婦人の答えに僕の頭中が‘???’。自分は散歩で足を鍛えているけれど、犬は走りまわるのでストローラーに入れておかないと手に負えないのだと言った。それどういうこと?お犬さん、迷惑な話で乳母車に閉じ込められて自由を奪われているのだ。なんとなく頷いたけれど納得できない話であった。
もう一つ。地下鉄のホームに入ってきた列車のドアにへばりついていた男性がドアが開いたとたんに女性専用車両から血相を変えて飛び出して、一目散に雑踏に消えた。間違って女性専用車両に乗り込んだのだと思う。スマホばかりをいじっていてホームの乗降案内の印を見過ごして女性専用車両に乗りこんでしまったのだろう、と僕の想像。

思案投げ首って?

2019-07-26 20:22:07 | 日記
“思案投げ首”と言う言葉があるらしい。いくら考えても良い考えが浮かばなくて首をかしげている様子をいうと辞書には説明があった。要するに、「ああでもない、こうでもない」と考えがまとまらずに思考がウロウロしていることである。
街歩きをして人と話すと面白いことを発見する。例えば食べ物商売の人やレストラン、いろんな工夫をしていることに気付く。昼のランチ一種類しか提供しない食堂はたくさんの種類の食材を用意することから解放されるし経費も安く抑えられる。とんかつのお店では昼にはサイズが小さいボールを客に渡してカレーを追加料金なしの食べ放題にしているところがあった。商売を軌道に乗せるための工夫をすることに四苦八苦、少しでも集客の役に立てばという“思案投げ首”状態がうかがえる。それでもうまく行くかどうかは全くの未知数。いろんな挑戦を心がけている人は魅力がある。100%うまく行くなどという保証などどこにもない。それでもやってみなければ何も起こらない。
先日、友達と阪神タイガースの欠点を話した。その時の結論は中核を打つ選手の見逃しの三振の多さである。バットは振らなきゃ何も起こらない。バットを振ってみて失敗した選手ほど成功する確率は高くなる。投げられたボールを見逃していては何も起こらない。
生きるということは工夫という“思案投げ首”、つまりは「ああでもない、こうでもない」の苦悩の連続なのである。日常の「ああでもない、こうでもない」を集めてみると面白い。
赤ちゃん育てのああでもないこうでもない、お父さんのゴルフの…、自分の時間を生み出すための…、収入を増やすための…、などなど何事も「ああでもない、こうでもない」の回数が成功を決める
日本から外国に目を向けて“Your struggles develop your strengths.君のもがきが能力(精神力や知力)を伸ばす”という英語の格言の存在に納得する。人種や住む場所に関係なく人は「ああでもないこうでもない」と思案して悩んでいるのである。この苦悩こそ数年後には実を結ぶ高い確率を演出するのだ。

観察力は学びへの道

2019-07-23 16:10:15 | 日記
僕には「ジャンシャン」と聞こえるこの季節のクマゼミの合唱である。寝室のすぐそばにある木犀(モクセイ)の木のクマゼミの朝の合唱だ。ある意味夏を感じながら同時に「うるさい!」とどなりつけたくなりながら朝の目覚めを迎える日がある。誰にとっても朝、目覚めた時の気分や体調は前回に書いたようにとても大切である。
今年は雨が多くて蝉(セミ)は脱皮、羽化のタイミングに苦労しているように思う。うまく羽化できなかった蝉が朝にまだもがいていることを目にすることもあって、どうしてあげればいいのか右往左往しているのがこの2,3日続いている。殻から出ても羽が乾かないのである。羽が乾かないのでねじれてしまって、つまり飛べないのだ。可哀想で泣きそうになりながら頑張れとしか言えない。木の枝に乗せてあげてあとは自然の摂理に任す以外に方法はないのである(脱皮に失敗した蝉には死が待っている、ということをかつて書いたことがある)。タイミングが悪く梅雨の真っただ中や台風のもたらす雨の最中に地中から外に出てきた蝉には実に過酷なスタートと言える。毎年繰り返される庭の木犀の木に起こる歓喜と苦悩の光景である。
“Let’s take the time to examine things around us. 自分の周りを観察する時間をとりましょう”観察することから学ぶことは多い。自然の営みだけの話しではない。人間観察もまた同様に学びの機会を与えてくれるのである。僕が‘街歩き’なるものに興味を覚えて外に足を向けているのにはこの理由がひとつある。自然と“なぜ?”と言う疑問から始まって次々と調べてみたいとか聞いてみたいなどの積極的な学びの姿勢が出てくるのである。
子供の頃の郷愁からか僕はなぜか蝉が好きだ。蝉の抜け殻を5,6個集めては本棚に並べて眺めたりしている。正面から見るとカマキリ状の二本の前足と大きな目がカッコいいと思う。5年程度土の中で樹木の根から樹液を吸って成長して外の世界では10日適度の寿命らしい。卵を枯れ枝などに産み付けて一生を終える。卵は卵で幼虫になって土に潜るまでまた一苦労。短い彼らの一生の生態は不思議である。

目覚めの良い朝は…

2019-07-19 20:25:02 | 日記
いろんな英語を日本語に訳す作業は何十年もやって来た。それでも工夫が必要な日本語に訳しにくい英語というものがある。例えば次のプラス思考の一文。誰か有名な人が言った言葉ではない。昔、積極思考の表現を調べていた時にネットで拾った英文だと思う。英語に興味のある人はもっといい和訳に挑戦してほしい。
Each new day is a do-over –a chance to do things differently.
(毎日はやり直しの出来る新しい日――物事のやり方を変えるチャンスである)

最近は庭の木のクマゼミの合唱で目覚める日が多くなった。アブラゼミをほとんど見なくなったのは気候の変化や生態系の変化などが影響していると新聞に書かれていた。
さて、そんな夏の朝、目覚めてベッドから出る時に“さぁ今日は新しい一日”という感覚を味わう時は、元気で‘やる気’がどこかにみなぎっている最高の出だしの日になる。ぼくはこの感覚を体調の目安にもしている。どんな小さなことでもよい、いつもとは違う何かをやってみると残りの一日が全く違ってくることに気付くのである。違うことをするというのは実際の行動を変えるという意味だけではない。違う角度でものを見たり、考え方を別の方向から見直すなどと様々な分野での変化を意味しているのである。自分自身ですら第三者的な目で見てみると新しい発見や心の整理と結びつくことがあってうれしい。
僕の毎日はコーヒのブラックと言ってもアメリカンだから苦くて濃いコーヒではない。それから新聞を読まないと一日が始まらない。ま、僕のここまでの習慣の繰り返しは良しとして、その後は時間があれば目をつむって心に残った新聞記事の復習や自分のその日の予定などを考えてみる。眠くなってウトウトしてしまうこともあるけれど、不思議と心の平穏さを味わうことができるのはうれしい。朝の目覚めは一日を変えると言っても過言ではない。

充実感の原点とは

2019-07-16 18:19:14 | 日記
「どうされていますか?」「お元気ですか?」とメールなどで声をかけてくれる教え子の人達や友人の言葉がうれしい。退職してからの日々で気付いたことは、特に記録するようなこともない日が数日続くと何か予定を立てようとカレンダーのノートにいろいろ計画を立てて書き込んだりするようになった。昔、休暇を取った後はなぜか仕事に戻る事が楽しみになったことを思い出した。
そこで、モールなどをぶらついて歩くというエキササイズ(運動)を時々試みてみる。店の中に足を踏み入れて最近の流行の靴やカバンを見て楽しむ。本屋さんに入って新刊書を手に取って数ページを立ち読みするのもいい。最近は店内に喫茶室を設けている書店もあり、休憩しながら数百円のコーヒで何冊もの本に目を通すこともできる。こうして2時間程度の運動後にスマホの歩数計を見るのがまた別の楽しみである。数字で表される何千歩で独特の達成感というか充実感を味わえるのである。「よし!体にいい事を今日はした!」というような‘生きる’という基本行為にすら満足感を味わったりもする。
どうやらこんな運動をしているのは僕だけではないらしい。歩いてはベンチに座ってひと休みを繰り返している人と頻繁に出会う。時には居心地のいい椅子に座ってぐっすり眠っている人すらいる。よちよち歩きの幼児の面倒を見ながらモールを楽しんでいる高齢者も見受ける。老人と幼児の動きを観察していると、“人は誰でも何かの役に立ちたいWe all want to be of use. ”と思っていることがよくわかる。老人は「あぶないよ!」と頻繁に繰り返しながら手を出し過ぎているように思う時もある。必死に幼児の後を追いかけている人もいる。「大変ですね」と声をかけてあげると、うれしそうにニコッと笑みが返ってくる。
“頑張る”とか“努力する”という表現は積極的に取り組んでいるという意味で考えてみると素晴らしい言葉である。しかし、無理やりに自分の意思に反して行う頑張りや努力は身体にとって毒になっても益にはならないと僕は考えている。