学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

年寄りの連休は日向ぼっこと草むしり

2024-04-30 16:43:57 | 日記
 各地の観光地での人出が今の言葉でいえば「半端ない」状態だ。オーバーツーリズムと呼ばれるようになってそのすざましさはそれこそ半端ない。コロナ禍の前、僕がまだ膝が痛むだのと歩くことがそれほど苦ではなかった頃、その混雑のすざましさを肌で感じたのが京都では清水寺のあの有名な坂、そしてバスに乗れないほどの観光客の列。大阪では心斎橋筋、そして奈良では東大寺のあのお土産やさんと鹿せんべいで有名な参道。僕の経験したものすごさはとにかくまるで満員の通勤電車の状態だった。その状態が帰って来た。今年は僕も歳をとってきたのだろう、渋滞、混雑、大行列のゴールデンウィークはウンザリで二度と味わいたくはない。
 半世紀も前、僕が子育て真っ最中のころ、娘達がまだ小学生と中学生の頃に経験した混雑以来、連休には外に出なくなった。とにかく駐車場はないはトイレは大変だは、どこもかもが渋滞で車の中でイライラが募るばかりということを経験した。結局何時間もかけて引き返して大阪市内で映画を見に行ったことを覚えている。いつも仕事にへばりついていると判断力を失う。そこで気分を変えるために家庭サービスもかねて外に繰り出すことにする、というのが大半の人の考えだろう。精神には休息を、といわれるが連休中の休息(?)はむしろ苦痛になることがしばしばだ。僕の学んだ教訓は「人の行く裏に道あり花の山:千利休」…人が繰り出す桜の花見には人が行き交う本道よりは一本外れた”裏道"に本当に桜を鑑賞できる場所がある。ゴールデンウイークのこの時期こそ"裏道を探す"知恵や工夫がものをいう。

ドアが二つ。開くまで見えない向こう側

2024-04-26 16:12:48 | 日記
 周りが落ち着いた時間(通学通勤の人が途絶えた時間)にいつものように家の周りの溝掃除を始めた。前が薬局のせいだろうか最近は側溝にマスクのボイス捨てが目立つ。薬局を出て来た二人のご婦人の会話が耳に入ってくる。いつも気にしているのだが僕は別に人の話に聞き耳を立てている訳ではない…なのに会話が筒抜けだ。声が大き過ぎるのだ。「ほんでな、こないだ入った会社、もう辞めるんやて。どう思う?」僕はホウキと塵取りをもって急いでその場を退散。最近は余計なことを聞いていてどんな言いがかりをつけられるかしれたものではない。
 毎年この時期に繰り返される新入社員の突然の退社。最近の若者は会社のことをちゃんと調べて入社しているのだろうか。それとも、会社が約束を守っていないのだろうか。多分、ケースバイケースだろうがどちらもありうると思う。ただしこの時期は、別々の会社に入社した大学時代の友人との情報交換でいろいる比較することが原因であるとも僕の教え子達に教えられたことがある。つまり、かつての仲良し達とのゴールデンウイークの約束時に話題にあがる会社のことなどが挙げられるらしい。人の不思議は数人が集まるとほとんど反射的にお互いの比較をはじめるのが人間だという。状況、環境の比較が個人的な人間比較へと拡大して、気づかないうちに無意味な自信喪失などという悲劇すら始まるともいう。個人主義のアメリカ、留学中に何度も教えられたことがある。「同じ人間は二人といない。比較することになんの意味がある」と…。
 

「ワイルドライフ」ー 僕は生き残れない

2024-04-23 16:20:55 | 日記
 NHKの『ワイルドライフ』という野生動物の生態を映すテレビの人気番組(僕が知る限り人気番組)がある。御多分に洩れず僕も大ファンなのであるが、肉食動物が草食動物を捕食する場面だけはどうしても注視できない。僕の性格的弱点であることはよく承知しているのだが、ダメなものはダメ、トイレにでも立ってこの場面だけはパスするのである。僕だって肉系の食べ物は大好きだし、生きていくためには仕方がない動物同士の業(ごう)である。
 生態系の頂点に立つ人間にとってもまた生きるということは仏教的にいうと”苦しみ”である。しかしその苦しみの中に意味を見出そうというのも人間だ。それは人間とって毎日毎日が学びの連続であることを意味し、生きていくためにはその学びが必要なのだ。ワイルドライフに登場する肉食動物達は今日を生きるためにだけ必要な獲物を狩る。彼らを見ていると明日には死があるかも知れないことを知りながら今日を生きているように思えてくる時がある。人間は自分が持っていないものばかりを見ながら生活するからいつまで立ってもすでに充分持っていることに気づかない。あれもこれも欲しい、と終わりがない。残りの人生をできれば長く生きれる様に、つまり生き残るためには毎日の苦しみの中に意味を探し求めなければならないのだ。(あ~しんど、疲れるな~。普通に番組の展開を楽しめばいいのに…呟)僕たち人間の生きる周りにはしんどいことが多すぎる。こんなテレビの見方をしているとまたひとつ”しんどいこと”が増えた様な気になってくる。「🎵明るく元気に気楽にいきましょう…」と自らに語りかける。

自分にとっての「花」を求めて人は生きる

2024-04-19 17:11:16 | 日記
 昔の人は春霞などと空気のよどみというのだろうか周りが霞んだ状況を表現した。古今集の在原元方という人は”霞立つ春の山辺はとほけれど吹きくる風は春の香ぞする”などと春の気配をうまく表現している。とは言え最近はそんな悠長なことをいっている場合ではないらしい。
 ここ二、三日はその春霞の元、中国からやってくる黄砂で大阪では生駒山が霞むどころかほとんど見えない状況だ。我が家から車で5分も走れば山の麓に沿って走る旧170号線に入れる距離なのにこの有様である。その年によって押し寄せる黄砂の量、濃度は異なるらしいが、今年は黄砂飛来の当たり年なのだろうか。洗濯物の外干しには適した温度になって来たのに外に干すと酷い目に会うことは誰の目にも明らかだ。車のフロントガラスなどはあっという間に埃りっぽい汚れた膜に覆われる。人によっては花粉症のような目のかゆみ、鼻水などにもなやまされるという。僕自身はなんとなく気だるいというか、シャキッとしない気分に支配されているのは気温のせいか黄砂のせいか。それでも人間は自然現象とともに生きていかねばならない。
 自分では全く制御できない自然のペースを受け入れて忍耐ということを人は学ぶ。そうかと思えば「自然は春に花を見たいと思う人を花のある所に導いてくれる」という言葉がある。やはり気分は自分が制御するもので、自分にとっての「花」を自ら探す積極的な姿勢が問われている。黄砂はそろそろ終わりになる。外に出て気分を変えてくれるのもまた自然の理(ことわり)だ。

大学は自分の”行きたい所"を探す場所

2024-04-16 16:30:30 | 日記
 昨日は新聞の休刊日だ。新聞が配達されないので仕方がなくテレビをつけて偶然画面に出て来たのが東京大学卒業生へのインタビューの光景。前後の経緯は定かではないが、東大卒業生として”喝を入れたい人は誰ですか”といった話であった。岸田首相に物申したい、水原一平に一言言いたい、などがあった一方で”自分に喝を入れたい”という東大卒業生が沢山存在するということに驚きを隠せない。どうやら東大にも入学することだけが目的になってしまって勉学は二の次となり悔やんでいる学生が沢山存在しているらしい。
 振り返ってみれば、僕が現役で大学で教えていた頃、学生の中には大学進学の理由が「大卒の学歴が欲しいから」とか「アルバイトをしながら青春を楽しみたいから」などと勉強することを忘れてしまった若者が沢山いた。あれから10年、きっと今もそんな学生が…
 半世紀以上も前、女性運動などを通して女性の生き方を考えるという風潮があった。結婚が目的となってしまっている女性が子育てを終えた後の人生に生きる目標を失った人達が問題になっていた頃があった。僕が「女性学」と銘打って教えた女子短大生の中には子育てをしながら大学に通ったり勉強を続けて立派に大学の先生になった女性が何人もいる。僕の誇りのかつての女子学生達である。サッカーの選手はピッチを走り回ってゴールを目指す。ゴールがなければただ走り回っているだけだ。自分が行きたい所が分からない人はどこへも行き着くことはない。