学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

秋という季節は…

2019-09-27 19:31:21 | 日記
アッと言う間に秋。急に朝夕の空気が変わってきた。朝、7時前後に庭に出て空を見上げることが習慣になって、天気を予測したりするのが楽しい。空と言えば雲。雲一つない真っ青に広がる空は本当に気分がよい。日によっては真っ青の空に鱗雲が広がっていて秋を感じさせる。夕刻になってくると西に沈んで行く太陽の色が秋を感じさせるのは不思議だ。入道雲の向こうに沈む太陽とはやはりちがうのだ。秋とは人に何かを考えさせる季節である。
プロ野球の選手が次々と引退を表明するのも、今年の夏の終わりを感じさせる。巨人の阿部選手のようにたくさんの観客に送られて選手生活を終える人もいるし、ひっそりとバットやグローブを置く選手もいる。秋が来るとこんなニュースが新聞のスポーツ欄を賑わす。どんな人にもこんな引退の時期がくる。
僕もプロ野球の選手のような引退ではないけれど職業柄、教え子に送られた退官の日を思い出す(もちろん秋ではなく、人がうきうきする春の日であった)。表現しがたい寂しさがあったけれど、最終講義に集まってくれた卒業生や学生に囲まれて幸せな日であった。仕事を引退すると解放感をしばらくは楽しめるのであるが、やがて、さて次は何を、ということになり不思議な焦りがあったのを思い出す。毎日、服を着替えて仕事場に向かうこともなく日課の変化に何かをしなければという強迫感に似たものが心の中を支配するようになる。だんだん慣れてくるだろうと考えるのは甘いと言える。毎日自分で自分の生活をコントロールする方法を考えなければならないのだから。
季節は確実に移り一年が繰り返される。寂しさや苦しさは「時間が解決してくれる」と人が言う時、それは慰めを意味している。でも、実際は“物事を変えるのは自分以外に他にはいないYou have to figure out a way to change things yourself. ”という事を自覚しなければならない。生きるという行為すべてに必ずついてまわることなのだから。

愛とはおもいやり

2019-09-24 18:03:00 | 日記
新聞を読んで自分の意見をまとめたり、他の人との意見の違いを認識したり、世の中の出来事に取り残されないように、などと考えている内はそれなりに楽しい。一方、世の中に首をかしげるような異常な出来事が多くみられるようになってきているのを気づかせるのも新聞だ。もう一つ、歳と共に一日の時間でテレビを見る機会が徐々に増えるようになってくると、テレビが家に居ながら世界のいろんな地域に連れて行ってくれる楽しさをくれる反面、ニュースの映像を通して社会の事件の異常さと‘人心の乱れ’に心を痛める機会もまた増えてくる。
詐欺集団のこと、虐待、児童殺人、あおり運転、道路の二車線車道の対面から急に自転車で飛び出しして逆方向に走る自動車の運転者を驚かせて喜んでいる‘ひょっこり男’の出現など数えればきりがない。一体日本人はどうなっているのだろう。一体日本の社会はどうなってしまったのだろう。
人に対する思いやり、優しさ、愛といったことばが徐々に消滅する方向にむかっているのだろうか。“愛(おもいやり)は親切心(優しさ)を感じさせてくれるLove lets you feel tenderness and warmth.”という英語の文章に出くわした。アメリカだって日本と同じように人心の乱れを嘆く人が多くいて“愛”(僕は時々その時の雰囲気で「思いやり」と訳す時がある)とは、単に男女の好き嫌いではなく、他人への思いやりであることに気付かされる。
意識して楽しいホッとさせる出来事を意識して探そうと思う。自分の意志で日常のいろんな場面を“陰から陽”に方向を変えることが出来る。お彼岸の墓参りを終えた時、ふと思ったのは健康や家族への感謝の気持ちなど。大袈裟なことを考えずに周りの小さい喜びに目を向けるようにすると少しは気も晴れる。

誘導質問

2019-09-20 18:12:28 | 日記
英語のjudge という単語にはたくさんの訳語が充てられていて、辞書では先ず人や事件を「裁判する、裁く」となるが、僕はアメリカに居る時に Don’t judge people. と人々が口にするのをよく耳にした。つまりこれは人を「審査したり、評価したり、鑑定したり」、というような行為をしてはいけないという事になると思う。身なりや服装や人種で人を判断してはいけないという戒めなのだろう。アメリカは様々な人種の人々で構成されている国であるが故の戒めなのだろう。
さて、プロ野球がいよいよ最終段階に入った。大相撲も千秋楽が目の前だ。“優勝”という二文字にわれわれは興奮を覚える。話を戻して、今日の“一日一考”は「judge: ジャッジ、審査」を考えてみようと思った。プロ野球のヒーロー・インタビューや大相撲の殊勲者インタビューなどいろいろなテレビ番組の中で行われるインタビューで気になる時が割と頻繁にある。とにかく誘導質問をするアナウンサーがあほらしくなってくる時があるのだ。インタビューをされている人から視聴者や観客が喜ぶような言葉を引き出すための質問や、対象者を泣かせて感動を呼び込もうという意図が見えみえものなどのいわゆる誘導質問だ。
先ほどの英語を“どのような質問をするかによって人を評価しようJudge people by their questions. ”などと変えてみたい気がする。日常生活の中でも質問の仕方や種類によって答えが左右されることが多々あって、われわれの人に対する評価に影響を及ぼすことがある。状況の違いや状況そのものを考慮にいれなければならないことは当然であるが、インタビューが核心をついたものであることで、聞く人は納得することができるし、インタビューの真の意味が生まれてくる。
例えば、野球で活躍した選手に対する試合後のインタビューや相撲で上位の力士を負かした殊勲の力士に取組の後の質問で「気分はどうですか?」と聞かれて「うれしくないです」とマイクに向かって人は口にするだろうか。答えは自ずと決まってしまうのに…。

赤ちゃんの誕生と名前

2019-09-17 20:01:05 | 日記
テレビ番組の中にその日誕生の赤ちゃんを喜ぶ家族を紹介するような短い番組がある。幸せそうな家族をみると「よかったね。おめでとう」と声をかける。でもそんな映像から視聴者は何を見ているのだろうかとふと考えた。当事者にとってはテレビに登場できて最高の記念になっているだろうが、視聴している一般の人達にとっては特に感動することもないのでこの映像をどのように捉えてよいのかに少しの戸惑いもあるという意見がると聞いた。大きく映った赤ちゃんの写真だけの年賀状を手にする時と同じような感覚である。
他人は、この赤ちゃんが将来何か立派な社会貢献をするだろう、などと期待しながらテレビの画面を見ている人は皆無であろう。でも、これが自分の子供となると話しはちがってくる。この子はきっと将来何かを成し遂げる人になる、きっと素晴らしい人生を送ってくれるだろう、などと期待に胸を膨らませるにちがいない。でもテレビの番組としては何となく押しつけがましくて特に感じることはない。ただ忘れてはならないことがある。“人は皆、何かすごいタレント(能力)を持って生まれてくるWe are all born with a talent to do something amazing.”という事を信じることはすばらしい。自分が赤ん坊の時の写真をみて、そして与えられた名前の意味を考えてみるとき、プラス思考で明日のことを考えない人はいるだろうか。(虐待などはまったく論外である。)
僕の親父が生きていればもう120歳近くになる。彼の名前は“黄波(こうは)”。昔の人は名前に意味を持たせて期待を込めて子供の名前を付けたものだ。稲が穂を付けて黄色い波となって秋の風に揺れる田園のさまを想像してもらいたい。食べることに困らぬように、コメの収穫に恵まれますようにとの願いが込められていたと聞いている。自分の名前にはきっと親の何らかの期待などを込めた意味が付加されているとおもう。僕の名前にも驚くような意味が背後に隠されているのだが、ここで解説することは控える。「個人情報に関する…」などと余計なことを気にしなければならない時代に僕は生きているから???

“自然”に学ぶ

2019-09-13 18:06:37 | 日記
スーパーに足を踏み入れるとイチジクが果物売り場で目立っている。またその季節が巡って来たのかと思わせる。花を付けないのに果実を付けるイチジクを漢字で書くと「無花果」なることに妙な納得を覚えた。自然が生み出す様々な果物や野菜など“自然の産物”に注意を払うと観察力が養える、と同時にいろんな知恵を授けてくれる。
“自然”という言葉はいろんな状況や場面で使われて、地震や台風も自然現象。日本での里山の風情、アメリカではグランドキャニオンを始めとする広大な大自然のいとなみが営々と続いている。ところが、ひとつ間違えれば恐ろしい力で人間の営みに襲いかかる。自然の力は人間に間違いなく人生とは何かを教えてくれるとは思うが、それは大抵の場合過酷で冷徹な方法にることが度々あって我々人間にとっては厳しく残酷なものとなる。
それでも“人は自然から学びながら前進する”(We learn a lesson from nature and make progress.)
今年の夏休み期間中も自然を楽しむ川遊びで悲劇が何件も起きた。自然現象では先日の台風は関東地方に襲いかかった。昨年の西日本豪雨の河川の氾濫による甚大な被害がすぐに頭をよぎった。なぜ思い出したかというと、電柱のてっぺんに引っかかっている洗濯機の写真が僕の収集している新聞切り抜きの中にあるからである。この豪雨から立ち直るために、人々はいまも一歩一歩前を向いて歩を進めている。
今回の台風15号は千葉県で荒れ狂い、停電を引き起こして残暑に苦しむ人々や死者も出ているほどである。屋根が吹き飛ばされて部屋の中から空が見える被害を受けた人もいる。水の供給が遮断されて風呂にも入れない。本当に自然は残酷なものである。前を向いて前進するためには、ここから学ぶものがなければならない。それは“忍耐”というものなのだろうか?「すべての不幸は忍耐によってのみ征服できる」と言う諺がある。
早朝にコオロギの鳴き声を耳にした。自然が巡ってうら寂しくもある秋がすぐそばにきていることを実感する。