先週の土曜日に東大阪市の花園ラグビー場公園で花火大会が催された。暑い、暑いと文句を言いながら、たとえひと時のことといえ、涼を求めて人々は夜の花火大会に足をむける。(本当は人手に圧倒されてますます暑くなるのだが)日本の各地で花火大会がたけなわだと聞く。日本に限らず外国でも花火の好きな人は多い。あの派手な打ち上げ花火は世界中のどの大会でも花形だ。どど~んと腹に響くような轟音があるかと思えばパチパチと人の注意を引きながら上昇して上空でドンと響く音、バンバンと表現できるような音、など様々だ。音は上空で光や色との共演の中で強調されて火の大輪の花を咲かす感動のひと時である。
空を見上げて花火の行方を追いながら、花火は人間の一生を表現しているようなものだと感じた。若い時に社会に飛び出して行くように、上空に勢い込んで駆け上って 光を放ち、思いっきり爆発してそれぞれの道へ、そしてゆっくりと下降して、その姿は消えてゆく。人生のどこかで輝ける機会があることを願いながら若者は社会へ散らばっていく。輝けたら素晴らしい、いや、きっと人知れず輝いているのかも知れない。最後に残るのは突如として空を支配する暗闇の世界。大空で燃え尽きて暗闇の世界に戻って行く花火とは夜の芸術という名にピッタリだ。ところで、アメリカの人達にとっては花火は独立記念日と結びつく。イエイ!、ゴー、Go! “花火のように飛び出せ!Take off like fireworks.” と自らを駆り立てる何かがあるらしい。そういえば、花火は見上げる空の大輪の花、気持ちを昂らせる何かを感じさせてくれる刺激がある。