学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

ものごと全て考え方次第

2022-06-28 16:17:39 | 日記
 歳は60代頃か、オバ様二人の会話が耳に入ってきた。場所は自動車販売所、一人は車の所有者、お相手はどこかに送ってもらうらしいお友達だ。僕と同じように車の六ヶ月点検をしてもらう間の暇つぶし会話に夢中である。新聞を読みながら聞くとはなしに耳に入ってくる会話は顔の皺(しわ)が増えて気にしているという話。女性が気にする顔や首の周りにできる皺、確かにお二人が納得しているように加齢が大きな影響を及ぼしているのだろう。でも僕は同じように皺を気にする話がアメリカの女性の間でも交わされているのを聞いた事がある。なぜ頭に残っているのかは理由があって、彼らは皺を“笑い”のせいにしていたことだ。皺は笑った数を指すと彼らは言う。僕は日本では苦労の数だけ皺が増えると聞かされていたような気がするのだ。
 物事は全て見かたと考え方次第、表面から見たり裏面から見たり、右からみたり左からみたり、見る角度や位置によって物は全て別の表情を我々に見せてくれる。「気が弱い」と言う意味は考え方によっては「優しい」人だ。ひとりでいる事が好きだと言う人は、一般には暗い人になるかもしれないけれど、自立している人とも言える。「わがまま」は自分のことを大切にしている正直な人ともなるのだ。良くも悪くも自分の発する言葉にちょっと待ったをかけることで、自分の本当の考えや感情が見えてくる。自分の本当の声を聞いてくれるのは自分しかいない。先ほどの皺はどうだろう。理想と現実はあるかも知れないけれど、皺はその人が幸せであった証拠かも知れない。お二人さんにこんな考え方をお話しして納得して、笑い合いたい衝動に駆られた。

梅雨の時期に「水無月」?

2022-06-24 16:29:07 | 日記
 雨でジメジメと不快な湿気に悩まされたかと思えば一転うだるような暑さがやってくる。これが梅雨の季節か、と疑問が湧く極端な天候が繰り返される。今のところは線状降水帯とかの発生が原因の大きな災害が報告されていないのがせめてもの救いである。
 梅雨の真っ最中のこの6月は旧月名では「水無月」と呼ばれていた。梅雨の月に水が無い月?これって何かの冗談?。どうしてこんなことになるのだろうかと考えてみた。自分の持論があっても悪いことでは無いという事がわかった。なぜなら、その説明を色々調べてみても全てが学者というか、研究者というかの人たちの考えに過ぎないからだ。そこで僕ならどのように考えるかを考えてみた。「水無月」と書くのだから「水が無い」にそれなりの理由があるはずだ。
 文法的に水無月の「な」が転じて「の」になるから「水の月」などという説明は僕には受け入れにくいので、雨が降り続くような6月の梅雨には「もう水は無くていい」だから「水無月」などと考えてみた。これ、面白いと自己満足。いやそれよりも、昔は5月に雨が多くて6月には雨はそれほど降らなかったので「水無月」、なども考えてみた。芭蕉の俳句に「五月雨を集めて早し最上川」があるではないか。ちなみに10月は「神無月」で神が居無い月。それは出雲大社に神さんが集合して、他の神社には神が不在となる、だから「神無月」との説明は理解がしやすい。やっぱり「無」という字は「無い」という意味にとる方が自然であるような気がするのだ。気がつけば、1月の睦月から12月の師走までの古典月名を復習できた。(よかったね)

歩数計の“壁”を破る

2022-06-21 16:43:29 | 日記
 東大の名誉教授、『バカの壁』(東京・新潮社)の著者と言えば養老孟司さん、そんなに人付き合いが得意な人とは思えないが、彼の“壁シリーズ”の本を読んでいると、どことなく人柄に興味が湧いてくる。“養老先生”で知られるこの先生は病院に行くのを嫌がるお医者さんだ。体調の変化を数値だけを頼りに診断する傾向のある最近の医療には厳しい考えのある養老先生、最近の新聞に歩いて自分の血糖値を下げたなどと持論を書いていた。それに触発されたのが誰あろうこの僕だ。車社会の典型、アメリカに住んでいたからか、とにかく歩くのが嫌いである。特に急を要するような深刻な疾患があるわけではないが、健康はやはり歩くことから始まると信じ始めた。
 スマホのアプリにある歩数計を調べてみると、意識して歩かなかった日は1日の歩数が2,000前後という情けない数字である。脚のむくみが出てきたり、少し歩けばすぐに疲れる。階段は登れないなどなど、どうもこれでは日常生活に支障が出る。そこでまずは4,000歩を目標に歩き始めて1ヶ月、今では必ず6,000歩以上を歩くことにしている。早足で歩いている間は何も考えないのが気に入った。脚のむくみがなくなってきて、なんとなく生きるということに前向きになってきたから不思議だ。アメリカの第16代大統領、リンカーンの名言は “自分の歩きはのろいけれど、決して後戻りすることはない I am a slow walker, but I never walk back.” である。歩いていると次々と欲が湧いてくる。前に進もうとする意欲が昨日より今日の歩数を伸ばしたいと思うだけでなく、何か体に良いことをしている意識が湧いてくる。「人生に後戻りなどない」などと考えながら歩くことを覚えた。

クチナシの花の香りが梅雨を呼ぶ

2022-06-17 16:34:30 | 日記
 梅雨入りだとテレビのニュースで知った時、即、頭に浮かんだのは紫陽花(アジサイ)の花。梅雨が反射的に紫陽花と結びつくのはほとんどの日本人の感性だ。しかし、ちょっと待て、紫陽花だけがスターではない、数日前の雨に濡れながら真っ白いクチナシの花が我が家の庭の片隅で開花したのだ。それも三輪がほぼ同時に。植物はどのようにして季節や温度の変化に呼応するのだろうか。クチナシは6月から7月にかけて咲く花だとちゃんとものの本に書いてある。
 僕が若い頃、クチナシといえば渡哲也の『クチナシの花』という歌謡曲、一時期よく流行って、カラオケで歌われることが多かった。ただこの曲、女性のお前がクチナシの花のようなのか、クチナシの花がお前と呼ばれる女性のようなのか、主体がよくわからない歌詞に、何度か議論されていたのを思い出す。クチナシの花はジャスミンと英語で呼ばれるように、なんとも言えない甘いというか、バターのような匂いを辺りに漂わせる。そのためにすぐに虫の標的になるし、クレープのような黄色に変色、いつまでもその真っ白い可憐な姿を維持できない儚い花なのである。♬…クチナシの花の 花の香りが 旅路の果てまでついてくる クチナシの白い花 お前のような花だった…♪、やっぱり先ほどの議論の答えは出てこない。ま、なんとなく匂いと共に未練たらしいのが演歌というものなのかな。とはいえ、この花の花言葉は「喜び」を運んでくる、とか「洗練」されている、などと結びつくことも花の名誉のためにつけ加えておかなければ。入梅の頃、雨と紫陽花、そしてクチナシの匂いが一体となって季節感を僕のもとに運んでくれる。

バンクシーの猿の絵

2022-06-14 16:24:19 | 日記
 外国でよく見かける光景だが、人が前と後ろに看板をぶら下げて街角に立って、道ゆく人々に読んでもらうという広告の方法がある。先週の金曜日のブログを書いてから、ずっと気になっているバンクシー展の一枚の絵は、寂しげな表情の猿がこの看板を身につけていて、前面には「Keep it real. キープ・イット・リアル」と書かれている。なんとなく意味はわかるのだが、もう一歩うまく意味が説明できないので辞書を調べてみた。なんとちゃんと成句があって「自分自身に正直であれ/正直な行動をする」という意味があるのだ。正直を表す英語の表現や単語はたくさんあるのでこの keep it real を僕は使ったことがない。
ところで猿は人真似で有名だ。いろんな状況の中で“猿真似”という言葉は使われていて、気がひけるが、日本の明治時代の文明開花の流れを日本人の猿真似などと揶揄された時代もあった。自分自身の発想を持たずに、他人の真似ばかりをしていることの警鐘にも使われる。西洋でも猿は同じよう見られていて、ape(エイプ)という単語を引いてみると“猿”という意味に加えて、“人の真似をする、〜をまねる” と訳が出ているのだ。バンクシーは猿(エイプ)を使って人間社会の消費の悪癖を指摘しようとしているのだ。流行を追って他の人の真似をする人々の浪費行動を批判するために、この絵で訴えているのだ。人がするから自分もする。もっと自分に正直に、自分自身に嘘をつくな、だってみんな浪費という悪癖の意味を知っているのだから、と訴えているのだと気がついた。バンクシー厳しいな〜、そして奥が深いな〜。