学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

すぐ鼻の下の幸せ?

2023-04-28 15:37:17 | 日記
 朝夕の温度差、いわゆる温度の日較差に着替えを頻繁にくりかえる毎日である。昨日、今日と連続して日中はかなりの温度になって、場合によっては暑さすら感じる。忘れていたが我が家のカーポートの下で冬を越した赤紫のサフィニアが見事な花を三つ、「忘れていませんか私のことを」と言わんばかりに咲き誇っている。一年草とばかり思っていたこの花は調べてみると案外冬を越せる生命力を持っていることを知った。冬の間、たま~に水をやる程度で特に面倒を見たわけでもないのに季節が巡って暖かくなると律儀に花を咲かせてくれる。
 サフィニアの花言葉は“咲きたての笑顔”と言われていることを知った。見ている人を笑顔にしてくれる咲き姿がそんな花言葉を生んだのだという。花は皆、そのような雰囲気を持っているとは思うけれど、桜やこのサファイアなどは寒い冬を越した後に華やかさをもたらしてくれるからだと思う。笑顔、スマイルで気づいたことは、最近のスマホのLINEでの交信に例の“まんまるの黄色いにこにこマーク”が使われることが多い。「丸書いてちょんちょん」と顔の輪郭と二つの目を描いて、そこに口の部分を色々形を変えて付け加えてみると、人の感情を表すさまざまな表情が表現できることに今更ながら気がついた。面白い! とにかくメモ用紙を引っ張り出して「丸書いてチョン」、それから口の部分をいろいろ変えて口元を少し加えてみたり、目の形を変えてみたりと飽きないで楽しめることに気がついた。まさに 「スマイルはすぐ鼻の下の(身近な)幸せである A smile is happiness right uder your nose. 」である。サファイアのおかげ? 暇なんやな~君は…と呟きながら楽しんだ。

後で気分が良いことと悪いこと

2023-04-25 16:47:02 | 日記
 喫煙者が吸い殻のポイ捨てをする行為と同じ次元の問題なのだろうか。菓子パンやコンビニで売っているおにぎりの外袋を道に捨てる人がいる。毎日ではないが2,3日に一度という頻繁さである。家の周りを掃除するのも僕の1日の日課だが、いったい誰が、と興味を持った。朝の時間帯を考えるとどうやら中学生の仕業であるという推察が成り立った。家の周りのゴミ拾いは別に気にもしていないが、気になるのは朝の通学時間にパンだのおにぎりを歩きながら食べるということや袋を道に捨てるという行為である。
 昨今の社会問題を反映しているような気がして背景を想像してしまう。例えば、母親が朝早くから仕事に出かけなければならなくて、「おにぎりでも買って食べといて」などという会話が聞こえてくる。いや、単にゆっくり朝食をとっている時間がないのではないか。そんな曖昧な感じで済まそうとは思ったが、やっぱり問題は残る。歩きながらの朝食と包み紙を道路がゴミ箱であるかのように捨てるという行為だ。僕が子供の頃は母親が外で歩きながら食べる行為を厳しく注意したものだ。チューインガムだって包み紙に包んでポケットに入れて家まで持ち帰ったものだ(忘れてガムがポケットに付着して困ったことも)。何が問題なのか。家族の一体感の欠落?公衆道徳の欠如?――あのアメリカの文豪ヘミングウエイは言った。“道義的とは、自分の行いの後で気分がいいこと。非道義的とは後で気分がすっきりしないこと What is moral is what you feel good after, and what is immoral is what you feel bad after. ”

老人は何を指折り数えて生きるのか

2023-04-21 16:57:41 | 日記
 少しは割り引いて受け取らなければならないが、年齢をだいたい70歳前半に見られることが多い。嬉しい気もあるが、僕本人は実際のところ何をするにもやや大義感があり、世間でいう“80歳の壁”なるものと戦っているような気がする。これではいけないと足踏み体操をはじめ身体を動かす軽い運動を心がけている。そんな折、先日は僕の生活にちょっとした緊張が走った。
 いわゆる訪問販売だ。屋根の補修屋と名乗る若者が玄関ベルを鳴らした。丁寧な口調で「恐れ入りますが対面応対をお願いできますか」ときた。「隣の家の鬼瓦が落ちたのでその補修をしていて気付いたのですが…」と切り出して、僕の家の樋が枯れ葉で詰まっているのでその掃除と瓦のズレを矯正した方が良い、との提案訪問販売である。僕は暇さえあれば庭に出て草木の新緑を楽しんだりして家の周りを観察しているので、隣の家が屋根の補修などしていないことを知っている。真っ赤なウソとはこのこと、よほど注意をしようかと思ったけれど、やっぱりやめた。無理をしてトラブルになっても面倒だ。実際、50メートルほど離れたところにもう一人、黒いポロシャツにジーンズ姿の男が腕組みをしてこちらを見ているではないか。こんなことが度々起こるようではうかうか外出もままならない。老人は住みにくい世の中になってきたとつくづく思う。元気のある清々しい若者がいる一方で、優しさを失った若者が目立つようになってきた。声高に叫びたい。「僕は残りの人生をスマイル回数(楽しさ回数)を指折り数えて生きていきたい I want to count the rest of my life by smiles.」ビクビクしながら生きていくなんて御免こうむりたい。一部の人が見失った“弱者を思いやる優しさ”を取り戻す方法はあるのだろうか。

過剰放送は右の耳から左の耳へ

2023-04-18 16:20:11 | 日記
 40年ぶりのの古い友人との再会の約束に喜び勇んで大阪市内に出かけた。大阪メトロの本町駅は昼前の11時前というのにすごい人出で驚かされた。4月の今頃は黒いスーツにネクタイ、新入社員の活躍する時期だ。そう言えば僕が現役のコロナ以前、大学も4月は新入生でキャンパスが賑やかで駅と大学を結ぶバスも混み合ってほぼギュウギュウ詰めの状態だったことを思い出した。5月、6月と月が進むに従ってバスも電車も混み具合が解消されて移動がしやすくなる。いまだにこれが何を意味しているのかが理解できないでいる。急に新入生や新入社員がいなくなるはずがないんだから。
 それはそれとして、僕が驚いたのは本町駅のアナウンスである。電車の乗降に’降りる人を優先して前を開けて’というお願いとも注意とも取れる構内放送から始まって駅中にガンガン響く案内のアナウンスの洪水である。あまりのひどさに無視を決め込むと本当に何を言っているのか分からなくなって単なる雑音になることに気がついた。とにかく道中は電車の中の車掌さんの到着駅案内から始まって、ほとんど不必要と思われる過剰アナウンスで吐き気がする。とにかく騒々しいのである。乗客の安全や安心を重んじることが行きすぎて逆効果を生んでいる最たる例である。まさに“ 過ぎたる愛は嫌悪感の原因となる Too much of love can cause too much of hate.” である。日本にも“過ぎたるは及ばざる如し”という格言があるではないか。
 アナウンスの頻度やボリュウムの大小などは誰が決めるのだろうか。実際に責任者が駅構内を歩いて状況を把握しているのだろうか、などと考えながら人混みの中を歩いていた。

“不器用?”気にしない、気にしない

2023-04-14 16:30:17 | 日記
 数日前、次のような文面のチラシを手渡された。「お近くの路上でガス工事を実施予定です。工事中は安全を心がけ、できる限りご不便のないよう努力して工事を進めますので、ご協力くださいますようよろしくお願いいたします」近所の新築工事もいよいよ大詰めを迎えたようだ。今日はその工事の日、車両の通行を制御する係の男性が二人、工事の進行に合わせて交通整理で大忙しである。自転車やバイクは通している。交通整理の男性の一人が相棒から怒鳴り散らされている。聞いていると通りかかってくる人や車の通行止めを説明して迂回してもらうことがうまく説明できていないようだ。おまけに手に持っている赤と白の旗をどうも間違う傾向にあるらしい。自分でも「不器用ですみません」と謝っていて、なんとなく気の毒になった。(僕:気にするな)
 昔、アメリカでクラムジィ(clumsy 不器用) という単語の使い方を学んだ日のことを思い出した。招待された感謝祭のパーティーで、その家の姉が弟を二言目にからかうのだ。 “もう、不器用なんだから(You, clumsy…!)” 僕が目撃した弟の不器用さは七面鳥の肉を食べているフォークを床に落としたり、ジュースのコップを倒したり、そんな小さい子がするたわいもない失敗なのだが、それをいちいち咎めてふざけ合っているのだ。アメリカ人の子供のふざけ合いにどのように対応していいのか分からずに僕はただニコニコ。母親の“やめなさい(Stop it!)” という大きな声が今でもハッキリと思い出される。フォークを落とす不器用さぐらい気にするな。ニュートンは物が落ちたり倒れたりするのを見て「万有引力」を発見したのだから。