学びのプラスあるふぁ:日常の気付き

人の人生、それぞれが皆オリジナル。街を歩き人に話しかけることから「なるほど」と納得できる発見がある。

森羅万象…もの思う秋

2024-09-27 16:31:44 | 日記
 やっと秋の涼気が朝夕に感じられて季節が動き始めたことを実感できるようになってきた。それでも空を見上げればまだまだ夏の雲が残っているし、9月末を迎えても夏と秋の同居状態である。自然の法則の下で我々人間は生きている。秋の空気の中で空を見上げているとやはり秋は「もの思いの季節」なのだなぁと感じる。それにしても能登半島の先端地方の災害を考えると、被害を受けた人々の思いはいかばかりか、と想いを馳せることになる。
 誰が言ったか「天災は忘れた頃にやって来る」。最近の日本列島各地の災害報道を見ていると、天災は忘れた頃どころか忘れている暇もないほど頻繁だ。「災」という字は上に川(水)を表す“く”が三つ乗っていて、下に火がある。地震や台風も災難を引き起こすけれど、昔は天の災いは水や火山の火などが中心だったのだろうか。
 能登に対する自然の仕打ちはどのように解釈すればいいのやら、色々考えて外国の天災に関する考え方を調べてみたりする。どんどんテクノロジーが発達する現代に、例えばアメリカの巨大竜巻、数分で街全体を壊滅させてしまう。それでも人々は自然と共に生きていかねばならない。信心深い人たちにとってはこれも神の思し召し、次のステップへの第一歩を、などという言葉も見受けられる。確かに"ゼロ"からの再出発というのか"いち"からの出直しを言うのだろうか、新しい機会と捉えて心気一変、再建への一歩を踏み出さなければならないのだろう。「人生、全てしばしの間だけ」という言葉を信じて前に進む以外に道はないのだろうなー。

「繰り返しの美学」とは良い習慣作りのこと

2024-09-24 16:11:46 | 日記
 早朝の4時や5時に目が完全に覚めてしまう日が夏中続いた。昨日は久しぶりに秋を感じる天気、思い切って早朝から近くの東大阪市花園中央公園に出かけみた。早起き鳥のジョギングの人など相変わらずの面々だ。特に犬の散歩が多いように思った。しばらく散歩しながら新鮮な空気を楽しんでいると急にざわつきがあったかと思うとラジオ体操が始まった。周りにいる人達が突然立ち上がってリズムに合わせて体操を始めたのだ。僕もボケっと突っ立っているわけにもいかないので合流したのだが、あの軽いジャンプの体操でほんの数センチすら飛び上がれないことに気がついた。筋肉の衰えである。膝痛も腰痛も全て筋肉の衰えだということを実感させられた。
 「フレイル」とは心身機能の低下から生活機能が落ちてきて人としての社会性まで失いかねない危険性の高い脆弱(ぜいじゃく)性を意味する。年寄りにとっては恐ろしい言葉である。ただ生活改善からフレイルに陥った心身の機能を改善する可能性があることも忘れてはならない。僕はアメリカに住んでいた頃から歩くことが苦手である。そこで周りのアメリカ人に倣ってどこへ行くのも車ということになる。日本ではアメリカに統治された沖縄の人たちがほんの数百メートル先の店に行くにも車で移動するということを聞いた。一方アメリカでは “stay fit” ということでフィットネス運動に熱心な人も多いことも事実である。スポーツ、勉強、はたまた健康であれ、”優”を目指すエクササイズとは自分の体に覚えさせるほどの繰り返しが鍵となる。ラジオ体操に参加しながら良い習慣作りについて考えた。

各地で閉店する本屋さんが増えている

2024-09-20 17:37:17 | 日記
 “全年代で読書離れ本離れ”。メディアの伝えるところ、スマホをはじめとして今の情報機器のお陰で本を読まなくなってきたというのが結論のようだ。現代の生活のペースを考えるとなんとなくこの傾向がわからないではない。僕の見解は精神的に余裕がないというものだ。ゆったり気分で夕焼けなどを見ながら自分の生活を振り返ると言ったような心の余裕がないのではと思う。
 思考力や表現力、豊かな想像力などを育成するためにも「みなさん本を読みましょう」などと叫んでみてもそんな声というか記事に目を向けるのは、本を読む人であって読まない人にはいわゆる“猫に小判”の状態である。僕が現役の頃、大学の4月の新入生向けオリエンターションで、大学生活まずは「時間を守って遅刻はしないようにしましょう」と語りかけている相手は遅刻をしないでちゃんと時間を守って出席している学生達。遅れてくる学生の耳には届いていない。このようないわゆる的外れが社会のそこら中で日常茶飯事、本当に聞いてほしい人、知ってほしい人には全く届いていないメッセージが溢れているのである。読書に関する一般の若者などの主張を聞くと、本の値段が高い、時間がない、活字を追うなどということは面倒だ、スマホを開ければ簡単に大体の情報を手にすることができる、などなど。いろいろ本を読まない理由を指摘されると反論する言葉に戸惑いが生じる。結局、幼少の頃と小中学生の時に本に接する喜びを知ること、一方、成人は読書の習慣作りを試みることだ。「本に馴染めよ。本を友にした人(reader)が明日の指導者(leader)となる」とアメリカ留学時に教えられたことを思い出した。

「敬老の日」、脳の皺(しわ)がまた増えた

2024-09-17 16:16:46 | 日記
 「敬老の日」、夕方のテレビで90歳の人が高齢者ボーリング大会を楽しんでいる姿を見た。単に楽しむを超えてかなりの腕前である。歳をとると同い年はいないと言われることを実感する。かなりヨレヨレの90歳とこの老人のようにボーリングを楽しめる人がいる。
 歳をとるに従って若者文化が理解できなくて、若者文化の変化のスピードについていけないことを棚に上げ、ついつい口に出る「今時の若い人は…」という言葉、そういえば僕の両親もよく同じようなことを言っていた。「人生路」という道があって、その道は人として生まれれば皆通らなければならない道だとすると、「老人よ、今どきの若者を馬鹿にするな、あなたもかつては歩いた道。そして同様に、若者よ、老人は…と馬鹿にするなかれ、君もいつの日か通る道」などと言えるような気がしてくる。
 老人相手に詐欺を働いたりする輩の存在が報道される。「敬老の日」なるものがなぜ設定されているのかを次の世代に伝えていかなければならないと思う今日この頃である。子や孫の世代には教えておかねばならないことがある。先を歩いた世代を粗末にするたびに、君が老いてからの希望という名の未来が遠ざかることになることを。人を困らすことよりも楽しいことを増やすこと。理由は老人の顔の皺とは人生に何度笑いがあったかを刻んだ印のことだという考え方があるからだ。パーティなど楽しいイベントには欠かせないワイン、寝かした年月と共に深みを増す。老人の皺とは成長の証でもあるのだ。<笑うたび/顔に出てくる/脳の皺>

予定は未定、“実現しない「いつか」”

2024-09-13 16:09:45 | 日記
 今年の秋はどうなっているのだろうか。相変わらずの暑さで夏が居座っている。とにかく昼間の温度が毎日のように35℃を超えているので全く外へ出かける意欲が湧いてこない。おまけに膝が痛い、腰がスッキリしない、足元がしっかりしない、となってくると遠くに出かけることなどはもってのほか。ずっと大阪に住んできて、まだ降りたことのない電車の駅の近辺“街歩き”も容易ではない。いつかいつか、と思いながら計画が頓挫してしまっている。
 もうすでに9月の半ば、秋のお彼岸も近づいて来ている。いつか、という計画は実現しないことが多いということは何度も経験した。ほとんどの「いつか」はその日にできること、などということも知っている。なのにやっぱり自分の計画の中には、実現しない「いつか」的なものがたくさんある。予定や計画というものはそのような性格を持っているのだという結論に達した。
 三連休のお彼岸の計画を立てるのにカレンダーをじっと見つめているうちに“未来は今日始まります。明日始まるのではありません”という名言があることを思い出した。どの日もどの日も今日は多分一番大切な日なのだと思うように心掛けてはいるけれど、それでも明日はもっと重要な日に見えてくる。多分、過ぎた日々は良きに付け悪しきにつけ、どうあがこうが変えることはできないけれど、明日という日はその次の明日にもつながって、自分でいかようにも変えていける日だからだ。それにしても今の僕のカレンダー、何も予定が入っていない日のなんと多いことか。かつてはびっしりと書かれた予定がなんとなく懐かしい。明日も「陽はまた昇る」…。