韓日市民の連帯の過去と現在、「オレの心は負けてない」
【コラム】
9月27日、石破茂が5回の挑戦の末に自民党総裁に当選したというニュースを耳にしつつ、日本の福岡に到着した。翌日、韓国の「アジア平和と歴史研究所」と九州で韓国を研究する学者たちの会「九州韓国研究者フォーラム」が共同開催する小さな学術大会が予定されていた。
今年で3回目を迎える今大会のテーマは「韓日市民連帯の過去と現在」だった。韓国からの参加者は、過去20年余りにわたる韓日の歴史教員たちの交流や韓中日3カ国の歴史対話の成果と限界について語り、日本からの参加者は韓日市民交流(日本の地域の市民団体と韓国の遺族団体)の代表的な「模範事例」といえる山口県宇部市の「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」の活動を紹介した。
大方の参加者は共感していた。だが、この日のすべての発表を聞いて浮かんだのは、一種の危機意識だった。教員や学生・生徒を中心として、韓日または韓中日の市民が顔を合わせて過去の歴史について意見を交わそうという動きが始まったのは、およそ2000年代初めに遡る。その頃は、人々の心の中にはこうした出会いを地道に続けていけば、韓中日3カ国の市民が不幸な過去を克服し「東アジア人」という共通のアイデンティティをもって真の和解を遂げられるだろうという期待があった。
その後も交流は繰り返され、少なからぬ成果があったことは確かな事実だ。3カ国の子どもたちに共通の歴史を教えるための副教材「未来を開く歴史」(中等部の歴史教科課程副教材)が、2005年に韓国・日本・中国の3カ国の言語で出版された時の感激は忘れられない。東アジア青少年歴史体験キャンプはもう21回も行われ、日本の「歪曲」教科書問題に対する韓日市民社会の共同対応も20年以上続いている。
個人的な経験からも成果を振り返ることができる。日本で民主党へと政権交代がなされ、「東アジア共同体」構想に対する議論が活発に行われた2010年は、ちょうど日帝による朝鮮半島強制占領から100年を迎える年だった。その年の三一節(独立運動記念日)に、韓中日3カ国の中学の歴史教科書を全面的に分析する記事を書き、1面に掲載した。見出しは「自国史中心から関係史中心へ―韓中日歴史『偏見教育』から脱して」だった。8月15日(光復節)直後の19日付1面には、千葉県の南房総で開かれた「第8回東アジア青少年歴史体験キャンプ」の現場の様子を書いた。生徒たちは互いの話を聞きながら「私たちはお互いのことを全然知らないんだ」と言い、教員らもやはり「共同の歴史教育で新しい未来を開こう」と口をそろえて言った。
しかしその後、状況はどんどん悪化していった。毎年少なからぬ市民たちが会い、互いの考えを語り合っても、溝は大きくなるばかりだった。ここで安倍晋三元首相(1954~2022)の名を取り上げずにはいられない。日本軍「慰安婦」問題をめぐり韓日の立場がぶつかる中、「(日本の)子どもたちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない」という安倍談話(2015)が出た。それ以降、日本の首相はもう謝罪と反省を語らなくなった。尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領が「屈辱外交」という厳しい批判を受けても2018年の最高裁(大法院)判決に対する「一方的な譲歩案」を提案したが、日本は応えなかった。おそらく最後まで応えないだろう。
一方で、日本の右傾化の流れに立ち向かい小さくも力強く抵抗してきた日本の市民団体は、後世がいない問題から、5年後も見通せない状況に追い込まれている。国際情勢の悪化により、韓日を越え北朝鮮・中国を包括する民間交流はもはや遠い夢だ。これがここ20年余り続いた東アジア市民交流の現実なのではないだろうか。
行事が終わって訪れた居酒屋で、「日本にはもう期待できるものはない」と挫折する私に、日本のある友人は「あきらめてはいけない」と言った。「キルさん、私たちはまだ河野談話(1993)と村山談話(1995)を捨てていませんよ。あきらめたら、日本の右派の望み通りになってしまう」
その言葉を聞いて、在日朝鮮人で自分が日本軍「慰安婦」だったことを明らかにし、粘り強く闘った宋神道(ソン・シンド)さん(1922~2017)を描いた昔のドキュメンタリー映画のタイトルを思い浮かべた。「オレの心は負けてない」。安倍が作り、尹錫悦が受け入れた「残酷な現実」をそのまま受け入れるわけにはいかない。そうだ。これからも力の限り書き、考え、抵抗するしかないのだ。