韓国人は着実に減っていて、なかでも幼少年人口が20万人余り急減した。また、韓国の10世帯のうち1世帯は65歳以上の高齢者の単身世帯だった。また首都圏の人口密集度も着実に上昇している。

2024-07-31 21:18:44 | 韓国を知ろう
 

「外国人増加」で韓国人口3年ぶりに増加…

10世帯に1世帯は一人暮らしの高齢者

登録:2024-07-29 20:23 修正:2024-07-30 06:58

 

2023年韓国人口住宅総調査 
単身世帯は歴代最多の35.5%
 
 
                                                  ゲッティイメージバンク//ハンギョレ新聞社

 常駐外国人の増加により韓国の総人口が3年ぶりに増加したことがわかった。韓国人は着実に減っていて、なかでも幼少年人口が20万人余り急減した。また、韓国の10世帯のうち1世帯は65歳以上の高齢者の単身世帯だった。また首都圏の人口密集度も着実に上昇している。

 韓国統計庁が29日に発表した「2023年人口住宅総調査結果」(登録センサス方式)によれば、昨年11月1日0時基準の総人口は5177万5千人で1年前より約8万3千人増加した。総人口は2020年(5182万9千人)以降、2年連続で減少していた。

 3年ぶりに総人口が増えたのは、韓国人より外国人が増えたためだ。昨年の「常駐外国人」は193万5千人で、1年前に比べて18万3千人(10.4%)増えた。常駐外国人とは、韓国国内に3カ月以上滞在したり、3カ月以上の滞在目的で入国した外国人を指す。統計庁は、新型コロナウイルス感染症流行後の韓国入国者の増加と、雇用許可制の拡大が影響を及ぼしたと分析した。

 韓国人は2020年以降、3年連続で減少傾向を見せている。2022年に4994万人を記録し、4年ぶりに4千万人台に下がったのに続き、昨年は4983万人でさらに10万人減った。なかでも0~14歳の幼少年人口(561万9千人)が24万1千人減り、15~64歳の生産年齢人口(3654万6千人)も14万人減った。一方、65歳以上の高齢人口は960万9千人で46万2千人増えた。

 
 
                                        ソウル地下鉄5号線の出勤時間帯の様子/聯合ニュース

 単身世帯の増加傾向も続いた。昨年の単身世帯は782万9千世帯で、1年前から32万7千世帯増えた。単身世帯が全体(2207万3千世帯)に占める割合は過去最多の35.5%。1年前より0.1%上昇した。単身世帯の割合は1980年には4.8%にすぎなかったが、2015年には27.2%となり、2019年(30.2%)に30%台を突破した。

 65歳以上の「高齢単身世帯」は昨年200万世帯を超えた。昨年、高齢単身世帯は213万8千世帯に増えた。全世帯に高齢単身世帯が占める割合は、同期間に9.1%から9.7%へと0.6ポイント上昇した。韓国の10世帯のうち1世帯は高齢単身世帯ということだ。

 首都圏の密集度は着実に上昇している。韓国の人口の50.7%である2622万6千人がソウルと仁川、京畿道などの首都圏に密集して暮らしていることが分かった。首都圏の人口比重は2015年の49.5%から2019年50.0%を経て昨年は50.7%に達するまで持続的に上昇している。

チェ・ハヤン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

 女子高生ライフル射手のパン・ヒョジンが表彰台の最も高いところに上った。16歳の名射手の誕生だ。

2024-07-31 20:47:10 | 韓国を知ろう
 

【パリ五輪】「16歳の射手」パン・ヒョジンが射止めた

韓国の100個目の金メダル

登録:2024-07-30 06:14 修正:2024-07-30 08:23
女子エアライフルで中国と接戦の末、金メダル 
カン・チョヒョン、ヨ・ガプスンに続く高校生名射手」
 
 
パン・ヒョジンが29日(現地時間)、シャトールーのフランス国立射撃場で行われた2024パリ五輪の女子エアライフル10メートル決勝で金メダルを獲得した後、授賞式でメダルを噛んでいる=オリンピック写真共同取材団//ハンギョレ新聞社

 女子高生ライフル射手のパン・ヒョジンが表彰台の最も高いところに上った。16歳の名射手の誕生だ。

 パン・ヒョジン(16、大邱体育高校2年)は29日(現地時間)、シャトールーのフランス国立射撃場で行われた2024年パリ五輪女子エアライフル10メートル決勝で、24発まで中国の黄雨テイと同点(251.8点)を記録したが、延長戦のシュートオフで10.4点を射抜き、0.1点差で金メダルを手にした。

 パン・ヒョジンはこれまで夏季五輪で韓国が獲得した100個目の金メダルを首にかけた。さらに、韓国の夏季五輪の歴代最年少金メダリストの記録も塗り替えた(16歳10カ月18日)。

 パン・ヒョジンのメダルは、20年ぶりに誕生した高校生選手の成果だ。これまでカン・チョヒョンが2000年シドニー五輪で銀メダルを獲得し、ヨ・ガプスン監督が1992年バルセロナ五輪で金メダルを獲得した。2人はそれぞれユソン女子高校、ソウル体育高校在学中に五輪に出場した。

 今回はパン・ヒョジンが32年ぶりにヨ・ガプスンの「金メダルの奇跡」を再現した。

 
 
29日(現地時間)、シャトールーのフランス国立射撃場で行われた2024パリ五輪女子エアライフル10メートル決勝で、パン・ヒョジンが照準を合わせている=オリンピック写真共同取材団//ハンギョレ新聞社

 パン・ヒョジンはこの日、決勝舞台で中国の黄雨テイと熾烈な接戦を繰り広げた。最初の10発の結果は黄雨テイが0.7点上回った。点差は12発目で0.9点まで広がった。しかし、13発目から状況が変わった。

 パン・ヒョジンは10.9点を取って0.5点差まで迫り、16発目で合計168.7点を記録し、黄雨テイ(168.6点)に0.1点差をつけて逆転した。

 それ以降はパン・ヒョジンの圧倒的な優勢が続いた。10.6点台以上の高得点で黄雨テイを圧迫し、20発目で同点を許したが、すぐに10.5点で反撃して0.1点差を取り戻した。終盤には黄雨テイが9.6点を撃ったことで、一時は1.3点まで点差を広げた。

 しかし、最後の23発目と24発目でパン・ヒョジョンが9.9点と9.6点を記録し、集中力を高めた黄雨テイに同点を許した。

 結局、延長戦のシュートオフでパン・ヒョジンが10.4点を射抜き、10.3点を記録した黄雨テイを0.1点差で制し、金メダルを手にした。

 
 
パン・ヒョジンが29日(現地時間)、シャトールーのフランス国立射撃場で行われた2024パリ五輪女子エアライフル10メートルの決勝で金メダルを獲得した後、喜んでいる=オリンピック写真共同取材団//ハンギョレ新聞社

 パン・ヒョジンは2020年東京五輪の真っ最中だった2021年夏に射撃を始めた。ところが、わずか3年で多くの先輩たちを引き離して五輪代表選考会を1位で通過した。28日に行われたエアライフル10メートル本選では、60発合計634.5点で五輪本選新記録を打ち立てた。

パリ/キム・チャングム記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年5月10日にダイエット薬中毒の治療のために京畿道の富川(プチョン)T病院に入院したPさん(33)は、入院から17日後の5月27日午前4時ごろに死亡した。

2024-07-29 22:34:47 | 韓国を知ろう
 

韓国の精神病院で手足を縛られ死亡した33歳女性…

腹が膨れ鼻血が出ても放置

登録:2024-07-29 02:58 修正:2024-07-29 08:29
 
「中毒治療」30代、富川で入院から17日で 
手、足、胸縛られ…解かれたものの最後は腸閉塞
 
 
5月27日、富川T病院で被害者のPさんが腹痛を訴えて扉をたたいた。保護士と看護助手がやってきて薬を飲ませ、Pさんをベッドに縛り付けている=CCTV映像より//ハンギョレ新聞社

 春川(チュンチョン)の精神病院で長時間にわたり隔離、拘束されていた患者が死亡する事件がハンギョレで報道されたことを受け、保健福祉部が「精神病院隔離・拘束実態調査」を開始した中、別の精神病院でもベッドに縛られていた患者が死亡する事件が発生した。遺族は同病院の医療スタッフを刑事告訴するとともに、国家人権委員会(人権委)に陳情をおこなった。

 今年5月10日にダイエット薬中毒の治療のために京畿道の富川(プチョン)T病院に入院したPさん(33)は、入院から17日後の5月27日午前4時ごろに死亡した。国立科学捜査研究院による解剖の結果、推定死因は仮性腸閉塞だった。

 遺族が公開した防犯カメラ(CCTV)の映像を確認すると、Pさんが隔離室(安定室)で腹を抱えて出してくれとドアをたたくと、看護師と保護士が入ってきて安定剤を飲ませ、その後、手、足、胸をベッドに縛り付ける拘束(五点拘束)措置を取った。2時間後、Pさんは腹が膨らみ、鼻血が出て息切れも見られた。看護師は拘束を解いただけで特に措置を取ることもなく部屋を出ていき、その後Pさんは意識を失い、死亡した。

 
 
     ベッドに手、足、胸が拘束(五点拘束)された被害者=CCTV映像より//ハンギョレ新聞社

 28日の遺族の話を総合すると、死亡したPさんは食欲抑制剤「ジエタミン」の中毒治療プログラムが優れているとのうわさを聞き、京畿道富川市の富川T病院を訪ねたという。同病院は有名な精神科医の兄弟が経営している。遺族が6月中旬ごろに富川遠美(ウォンミ)警察署に提出した告訴状は「被害者は5月20日から排便活動が困難になり、断続的に腹部の痛みを訴え、26日午後7時ごろからは排便活動の困難を伴う深刻な腹部の痛みを訴えていたにもかかわらず、病院側はまったく措置を取らなかった」とし、「その後、腹部の膨脹で排便管理が疎かになり、それが原因で被害者が騒ぐと、安定室(隔離室)に監禁してむしろ睡眠薬、デパコートなどの向精神病薬を服用させた」と主張している。Pさんは26日午後7時ごろに隔離され、27日0時30分から2時45分まで拘束された。

 死亡したPさんの兄は、「3~4人部屋にいた妹がなぜ安定室に行かされたのかも分からない。有名な医師が運営するリハビリシステムを信じて行ったのに、むしろ国立科学捜査研究院の解剖で致死量に近い安定剤が血液から出てきたと聞いている」と語った。薬物の副作用で腹痛や腸閉塞などが起きたのではないかと疑問を呈したのだ。遺族は状態が悪化したPさんを意図的に放置したとみて、病院長のY氏ら3人の医師と3人の看護師を業務上過失致死ではなく遺棄致死で刑事告訴した。

 
 
富川T病院で入院から17日後に死亡したPさんが、死亡する9時間前、腹を抱えて出してくれと訴えている=CCTV映像より//ハンギョレ新聞社

 遺族は、CCTV映像から死亡原因を明らかにしうる重要な部分が削除されているとして、証拠隠滅疑惑も提起している。遺族は、5月27日3時1分ごろから41分にかけて、途中の30秒あまりを除いてすべて削除されていると主張する。病院側は「慢性便秘患者であったし、腹痛も訴え続けていたわけではなかったので、腸閉塞を疑うことが難しかった」とメディアに釈明している。

 精神障害者の当事者団体「パドソン」のイ・ジョンハ代表は、「患者が不調を訴えているにもかかわらず、それを無視して縛り付けてしまったという点で、春川A病院と類似している。真相調査と明確な処罰がなされなければ、これからも精神病院では同じことが起こり続けるだろう」と述べた。

 春川A病院の閉鎖病棟の隔離室で289時間20分という長時間にわたり隔離、拘束され、2022年1月8日の朝に死亡したキム・ヒョンジンさん(仮名、45)の前妻のパク・チウンさん(仮名)も、「富川T病院の被害者が隔離状態で扉をたたいたのは、もしかしたらトイレに行きたいという理由もあったはず。春川A病院で死んだ故人も、1月2日未明に、トイレに行けなくて苦しんでいる場面が映像に映っている。自傷や他傷の危険性がみられないのに、生理現象による患者の要請も無視して放置した」と述べた。パクさんは「処罰がほぼないため、こうした虐待が繰り返される。適切な処罰が絶対に必要だ」と述べた。

コ・ギョンテ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昨年、日本の人口が過去最大の約86万人減となったことが調査により明らかになった。低出生率と高齢化によって、日本の人口減少は15年連続で続いている。

2024-07-28 23:55:05 | 一人一人の人権が保障される世界の実現を!
 

日本の人口減少、過去最大の86万人…15年連続で減少傾向

登録:2024-07-26 09:57 修正:2024-07-26 10:08
 
 
                              東京の品川駅の様子=東京/キム・ソヨン特派員//ハンギョレ新聞社

 昨年、日本の人口が過去最大の約86万人減となったことが調査により明らかになった。低出生率と高齢化によって、日本の人口減少は15年連続で続いている。

 日本の総務省は24日、住民基本台帳に基づき今年1月現在での日本の人口を調査したところ、1億2156万人で前年より86万1000人減少したと明らかにした。86万人減は、1968年の調査開始後では最高水準。死亡者数は157万9000人で過去最多となり、出生者数は72万9000人と最も少なかった。

 日本の人口は2009年に1億2700万人でピークに達した後、今年まで15年連続で減少している。一方、日本に住む外国人の数は初めて300万人を超えた。外国人数は昨年比で32万9000人(11%)増の332万3000人で過去最多を記録した。

 地域別にみると、47都道府県のうち総人口が増えたのは、首都圏である東京都・千葉県と沖縄県の3都県のみ。外国人を除いて日本人だけを集計した場合、人口が増えたのは東京だけだ。

東京/キム・ソヨン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「植民地時代の朝鮮のフードシステムの形成と再編は、国家独占および租税と相まって総督府の財政と密接な関係を持っており、植民地統治を支える財源にもなった」

2024-07-27 10:54:36 | しらなかった
 

朝鮮が作った米で

日本の消費支える…帝国のフードシステムから見た経済史【レビュー】

登録:2024-07-26 09:59 修正:2024-07-26 14:12
牛も流出し、劣等化が続く 
紅参と酒税は総督府の財源に 
 
植民地の食料産業研究によって明らかに 
「1次史料を用いて客観的な理解を追求」 
 
『飲食朝鮮―帝国が再編した食経済史』 
林采成著、イム・ギョンテク訳|トルベゲ刊|3万2000ウォン
 
 
群山港での米穀積み出しの場面。朝鮮興業株式会社編「朝鮮興業株式会社30周年記念誌」(1936)=トルベゲ提供//ハンギョレ新聞社
 
 
『飲食朝鮮―帝国の中の「食」経済史』林采成著、イム・ギョンテク訳、トルベゲ刊//ハンギョレ新聞社

 朝鮮半島に対する日本の植民地支配は、政治と外交、軍事などの分野に限定されたわけではない。生存に必要な食材や食文化でも植民統治の影響は明らかだった。米が足りなかった朝鮮半島からむしろ日本に米が流出し、それによって植民地の朝鮮人の体格が低下したのは端的な例だ。日本の立教大学経済学部教授の林采成(イム・チェソン)氏による研究書『飲食朝鮮―帝国が再編した食経済史』(原著の副題は「帝国の中の「食」経済史」)は、米や牛、明太子、牛乳、ビールなど9種類の食料産業と飲食文化を通して日本の朝鮮支配が持つ経済的意味を掘り下げる。

 著者は議論を展開するために「フードシステム」という概念を導入する。フードシステムとは、食料の生産から流通・加工を経て消費行為に至るまでの全過程を意味し、生物学的な側面と政治・経済的側面、社会文化的側面を併せ持つ概念だ。日本による植民地時代の朝鮮半島の経済状況をめぐり、植民地近代化論と収奪論が両極端で対立している状態で、可能な限り統計や文献などの1次史料を用いて「事実に基づいた客観的な歴史理解」を追求したと著者は明らかにした。

 強制合併に続く土地調査事業が終わると、朝鮮における日本人の耕作地の所有面積が急増した。1932年になると日本人が朝鮮内の水田全体の16.1%を所有することになるが、そのうち88.8%が小作地であり、ほとんどの日本人が植民地の地主だった。 朝鮮総督府が推進した「産米増殖計画」により米穀生産が大きく増えた。生産された米穀のうち輸移出量は1912年には4.5%に過ぎなかったが、1921年には21.9%に増え、1936年には51.4%を記録するに至った。日本の1人当たりの年間米消費量が1930年代まで1.3石前後を保っていた一方、朝鮮の米消費量は併合の頃の0.9石ほどから、1930年代前半には0.5石前後にまで落ち続けた。その理由がここから分かる。朝鮮の米消費を抑え日本の米消費を一定水準に保つこのような政策は、朝鮮人の栄養供給と身体発育に致命的な結果をもたらした。著書によると、「成人男性の身長は1900年代から1920年代半ばにかけて約2センチ大きくなったが、1920年代半ばから1945年まで約1~1.5センチ小さくなった」という。

 
 
移出する牛の船積み。朝鮮興業株式会社編「朝鮮興業株式会社30周年記念誌」(1936)=トルベゲ提供//ハンギョレ新聞社

 朝鮮から日本に持ち出されたのは米だけではなかった。牛も毎年5~6万頭が日本に移出された。1923年に農家100世帯当たりの畜牛頭数は朝鮮が56頭、日本が24頭であり、畜牛総数は朝鮮が161万頭、日本が143万頭だった。日本牛の屠殺率が出産率を大きく上回り、牛の市場構造が慢性的な供給不足に陥り、朝鮮牛がそれを埋めることになった。その結果、日本牛の頭数は増加した反面、朝鮮牛の頭数の増加は停滞した。それだけでなく、概して出産率も高く役用牛としても優秀な朝鮮の2~3歳の雌牛が日本などに流出した結果、朝鮮牛の体高と体重が1920年代から1940年代まで低下し続けるなど、朝鮮牛の劣等化が進んだ。このような米と牛の事例から分かることは、植民地朝鮮が日本の食料基地に転落したという事実だ。

 
 
平壌の牛市場。朝鮮興業株式会社編「朝鮮興業株式会社30周年記念誌」(1936)=トルベゲ提供//ハンギョレ新聞社

 朝鮮の特産品として特に中国で人気が高かった紅参は総督府の専売の対象であり、総督府の財政の安定的な収入源となった。総督府は日本の財閥系資本である三井物産に紅参の海外独占販売権を与え、三井物産は紅参販売だけでなく生産過程にも関与するなど影響力と収益を拡大した。

 1919年に酒精式焼酎の工場が平壌に設立されたのを皮切りに、新式の焼酎工場が相次いで出現すると、総督府は「朝鮮酒税令」と度々の改正令を通じて酒税を増やし、それが総督府の財政における最大の税収源となった。1933年12月に大日本麦酒が永登浦に朝鮮麦酒工場を建て、翌年には麒麟麦酒も朝鮮で生産した「キリンビール」を販売し始めたことで、朝鮮人の麦酒消費が大きく増えた。それが再び総督府の財政に役立った。総督府はまた、煙草製造を専売事業とすることで、「植民地民の嗜好を充たしながら、統治および開発の財源を確保できた」。日中戦争と太平洋戦争に突入してからは、朝鮮で生産された煙草が中国や南方の占領地を含む「大東亜共栄圏」各地に送られた。

 ビールと同様に、牛乳は日帝の植民地支配の副産物として朝鮮に導入された。開港直後から仁川や釜山などの居留地の外国人を中心に搾乳業が始まり、次第に朝鮮内に広がっていった。日本を経由して牛乳という「文明的滋養」が朝鮮内に新しい食文化として導入されたのだ。牛乳をほとんど飲まなかった朝鮮人も、小規模ながら牛乳の消費に取り込まれた。牛乳と共に練乳、粉ミルク、バターなどの乳製品も朝鮮で消費されたが、これらはほとんど西洋諸国からの輸入品だった。

 
 
果物を売る子ども。朝鮮興業株式会社編「朝鮮興業株式会社30周年記念誌」(1936)=トルベゲ提供//ハンギョレ新聞社

 朝鮮は気候と土質がりんご栽培地として優れた条件を備えているが、在来りんごは品種改良された西洋りんごに比べて商品性が劣った。開港後に宣教師らによって西洋品種が導入され、市場販売を目的とする産業展開が行われた。朝鮮のりんごは植民地時代に急激に生産が増加し、朝鮮内の消費が増えただけでなく、朝鮮半島から近い西日本地域などへの輸移出もまた増えた。ところが特記すべきことは、輸移出の対象になるのは良質のりんごであり、その残りが朝鮮内で消費されたという点だ。一方、咸鏡道の地域民が自家用で作って食べ、一部だけ現地で販売されていた明太子が、日本人の嗜好品となったことで商品化され、戦時下では国家管理対象になったのは興味深い現象だ。

 このように9種の食料を通じて植民地朝鮮のフードシステムを考察し、それが植民地解放後に韓国で再編される過程も合わせて探った著者は、結論でこのように語る。

 「植民地時代の朝鮮のフードシステムの形成と再編は、国家独占および租税と相まって総督府の財政と密接な関係を持っており、植民地統治を支える財源にもなった」

チェ・ジェボン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする