アフリカ諸国とドイツ植民地の「開拓英雄」たちの名前は、アフリカ地区のいたる所で通りの名称として名が刻まれている。

2024-09-01 07:31:53 | しらなかった
 

「ドイツ帝国」の道と平和の少女像【特派員コラム】

登録:2024-08-30 06:45 修正:2024-08-31 16:18
 
 
23日(現地時間)ドイツのベルリン・ミッテ区の「アフリカ地区」で、19世紀にドイツ植民地を占領したカール・ペータースにちなんだ「ペータース通り」の名称を変えるイベントに参加した人たち=市民団体Decolonize BerlinのXより//ハンギョレ新聞社

 都市全体が「記憶の空間」と呼ばれるドイツのベルリンには、ドイツ帝国時代が垣間見られる空間もある。ベルリンのミッテ区のベディング地区にある「アフリカ地区」だ。そこには、植民地の人たちを「人間博物館」に展示しようという企画を作りだしたドイツ帝国の記憶が埋め込まれていた。19世紀にドイツ領東アフリカ(タンザニア・ブルンジ・ルワンダなど)の植民地管理を総括したカール・ペータースによる苛酷な統治によって「血の手」「絞首刑執行人ペータース」と呼ばれたが、ドイツでは帝国のために献身した人物として評価された。彼の名前にちなんだ通りの名前である「ペータース通り」(Petersalle)がアフリカ地区を通っていた。

 アフリカ諸国とドイツ植民地の「開拓英雄」たちの名前は、アフリカ地区のいたる所で通りの名称として名が刻まれている。ここに根を下ろしたアフリカ系移民たちは、平穏を甘受すべき空間の前で、常に「加害者の歴史」に直面することになる。

 ところが、8月23日にペータース通りの前で小さな祭りが開かれた。カール・ペータースの名を消し、2つの新たな表示板を取り付けるためだった。ドイツの植民地支配に対抗したタンザニア人の抵抗運動の名前から取った「マジマジアルレ」(Maji-Maji-Alle)と、同じくドイツの植民地だったナミビアのアパルトヘイト(「分離」を意味する人種差別政策)に反対した女性活動家のアンナ・ムングンダの名前からとった表示板だ。脱植民主義の活動家たちの長きにわたる要求とミッテ区議会の決定、法廷闘争の末に勝ち取った成果でもあった。

 植民地主義の歴史を示す通りの名称は、次々と新たな名前に置き換えられてきた。ある活動家はドイツメディアのインタビューで「アフリカ地区は、今や反植民地の空間に変わった」と自負を示した。しかし、72歳のタンザニア出身の活動家のムンヤカ・スルル・ムボロさんは、このようになるまで「40年の時間がかかった」と語った。

 都市は変わっているのだろうか。カール・ペータースが消えたこの町角から約3キロメートル離れたところには、日本軍「慰安婦」被害を象徴する平和の少女像が撤去の危機に直面している。そこでは「アリ」という名で呼ばれる少女像は、4年前にミッテ区の公共の敷地に建てられ、日本政府の圧力にもかかわらずその場所を守っていたが、ミッテ区庁は「これ以上の期間延長は不可」として、少女像を設置した市民団体に9月末までに撤去するよう要求している。この決定を撤回するよう請願したミッテ区民の数は、いまや3000人を超えた。あるアフリカ系男性は少女像の前で、旧ドイツ軍による性的暴行を受けて妊娠した自分の祖母の話をしたという。彼はアリが自分の妹のように感じられると語った。少女像を建てたコリア協議会は、昨年もベルリンの地域社会の学校や青少年団体で子どもたちに会い、日本を越えてドイツやルワンダなどで発生した植民地時代の戦時性暴力問題を話した。

 この場所で少女像が単なる韓日関係や歴史的対立の手段として片付けられない理由は、ミッテ区のドイツ人たちが語っている。ミッテ区のシュテファニー・レムリンガー区長は、カール・ペータースの名が町から消えたことは「正しくて良いこと」だとしながらも、市民社会に感謝を示しながら「非常に長くかかったことを後悔する」と述べたという。少女像に向けられた区長の最後の返事が気になる。

 
//ハンギョレ新聞社

チャン・イェジ|ベルリン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

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歴代都知事は式典に追悼文を送ってきました。ところが、小池氏は知事に就任した2016年は送付したものの、翌年からは取りやめました。今回も見送れば8年連続となります。

2024-08-28 10:25:00 | しらなかった

2024年8月28日(水)

主張

朝鮮人虐殺と知事

史実を直視し追悼文の送付を

 東京都の小池百合子知事は、1923年の関東大震災直後に虐殺された朝鮮人犠牲者らを追悼する式典に今年も追悼文を送らない考えを示しています。

 歴代都知事は式典に追悼文を送ってきました。ところが、小池氏は知事に就任した2016年は送付したものの、翌年からは取りやめました。今回も見送れば8年連続となります。式典を主催する実行委員会(日朝協会東京都連合会などで構成)が、小池氏の追悼文送付拒否を厳しく批判しているのは当然です。

■式典の意味を無視

 追悼式典は9月1日に都立横網町公園(墨田区)内にある東京都慰霊堂そばの朝鮮人犠牲者追悼碑の前で営まれます。追悼碑は関東大震災から50年目の1973年に虐殺の犠牲となった朝鮮人らを悼む目的で当時の実行委員会が寄付を募り都と連携し建立したものです。翌74年から毎年、大震災のあった9月1日に追悼式典を開いてきました。

 小池氏が追悼文を送るのをやめたのは、2017年3月の都議会で自民党の古賀俊昭議員(当時)が碑文の内容などに難癖をつけ、碑の撤去や追悼文送付の再考を求めてからでした。

 小池氏は今月23日の記者会見で、追悼文を出さない理由について「(9月1日に)東京都の慰霊堂で開かれる大法要で、(関東大)震災による極度の混乱下での事情で犠牲となった方も含めて、全ての方々に対して慰霊する気持ちを表している」と、これまでの主張を繰り返しました。

 しかし、朝鮮人犠牲者追悼式典は「人の手によって命を奪われた朝鮮人犠牲者を追悼し、二度と同じ過ちを起こさないことを誓い合う式典」(実行委員会)です。大地震による自然災害で命を失った被災者への追悼と、震災とは別の人災による犠牲者への追悼は意味が異なります。そのため歴代の知事は都慰霊堂の大法要で追悼の辞を述べるとともに、朝鮮人犠牲者追悼式典に追悼文を送ってきました。小池氏の態度は式典の意味を無視するものです。

■虐殺は歴史の事実

 小池氏は、大震災での朝鮮人虐殺について問われても、「何が明白な事実かについては歴史家がひもとくもの」などと述べ、事実だと認めません。しかし、大震災の発生直後から、朝鮮人が暴動を起こすなどといったデマが流れ、軍や警察、自警団が集団虐殺を行ったことを示す公的資料は数多く存在しています。

 政府の中央防災会議の「災害教訓の継承に関する専門調査会」は09年に関東大震災に関する報告書を公表しています。

 同報告書は「当時の公的機関が作成した記録に依拠」してまとめたもので、「朝鮮人が武装蜂起し、あるいは放火するといった流言を背景に、住民の自警団や軍隊、警察の一部による殺傷事件が生じた」「武器を持った多数者が非武装の少数者に暴行を加えたあげくに殺害するという虐殺という表現が妥当する例が多かった」と明確に認定しています。

 朝鮮人虐殺は動かしようのない歴史の事実です。「極度の混乱下での事情で犠牲となった」などとあいまいにすることは許されません。小池氏は史実を直視し、追悼文を送るべきです。

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レバノン南部上空で25日、イスラエルの戦闘機が爆撃対象地域を明らかにする目的で照明弾を発射している。イスラエルはこの日、レバノン南部のヒズボラを狙い、大規模に先制の空爆攻撃を行った

2024-08-26 10:36:46 | しらなかった
 

「戦闘機100機」イスラエルが先制攻撃…

ヒズボラとの全面戦争、一触即発

登録:2024-08-26 06:52 修正:2024-08-26 08:27

 

ヒズボラ、ロケット弾約320発で反撃
 
 
25日、イスラエル軍がヒズボラの発射したドローンを破壊する様子を公開した/AFP・聯合ニュース

 イスラエルがレバノンのシーア派武装組織「ヒズボラ」に対する先制攻撃を行い、ヒズボラもロケット弾320発以上を発射して対抗した。先月にヒズボラの上級指揮官とハマスの政治部門の最高指導者が命を落として以降、イスラエルとイランおよびヒズボラとの間の全面戦争の懸念が高まるなかで起きたことであり、中東の緊張が高まっている。

 イスラエル国防軍(IDF)のダニエル・ハガリ報道官は25日朝に声明を出し、「先ほど、ヒズボラのテロ組織がイスラエルの領土に向けてロケットの発射を準備中であることを確認した」として、「脅威を除去するための自衛的措置として、イスラエルの民間人に向けられた攻撃を計画しているレバノン内のヒズボラを標的に攻撃した」と明らかにした。米国「ニューヨーク・タイムズ」は、イスラエルの商業の中心都市であるテルアビブを狙ったロケット発射台をイスラエルが主に攻撃したと報じた。

 イスラエルはこの日早朝、戦闘機100機あまりでレバノン南部のヒズボラのロケット発射台などを1000回以上爆撃し、レバノン内の40カ所以上を攻撃したと明らかにした。イスラエルのヨアブ・ガラント国防相は、この日の午前6時から48時間の全国非常事態を宣言し、ベンヤミン・ネタニヤフ首相は午前7時に緊急安全保障内閣会議を招集した。レバノン保健省は、イスラエル軍の空爆で少なくとも3人が死亡、2人が負傷したと明らかにした。

 イスラエル軍の先制攻撃後、ヒズボラはイスラエル北部に向けてロケット弾320発以上を発射し、ドローンを飛ばして軍事基地11カ所を攻撃したと主張した。ヒズボラは声明を出し、報復攻撃の「最初の局面は完全な成功で終わった」としたうえで、「イスラエル軍の兵営と駐屯地を狙った」と主張した。ヒズボラは、イスラエル北部とゴラン高原の11カ所のイスラエルの基地、兵営、軍駐屯地などが目標だったと明らかにした。イスラエルはテルアビブのベングリオン国際空港の運営を中止したが、午前7時に運航を再開した。

 
 
25日、イスラエル軍がヒズボラの放ったドローンをイスラエル北部で迎撃したとして、写真を公開した/AFP・聯合ニュース

 これに先立ち、イスラエル軍は先月30日、イスラエルの子ども12人が死亡したサッカー場攻撃事件がレバノンのシーア派武装組織「ヒズボラ」によるものだとしてベイルートを空襲。これによりヒズボラの最高クラスの軍指揮官であり戦略部隊のトップのフアド・シュクル司令官が死亡した。先月31日には、イランのマスード・ペゼシュキアン新大統領の就任式への参加のためにイランの首都テヘランを訪問していたパレスチナ武装組織ハマスの政治部門の最高指導者、イスマイル・ハニヤ氏がイスラエルによるものと推定される攻撃で死亡した。

 その後、イランとイランが支援するヒズボラがイスラエルに対する報復を誓うと、戦争の炎が中東全域に広がるのではないかという懸念が強まった。先月の事態後、イスラエルとヒズボラの武力衝突は続いていたが、今回の衝突は先月30日以降では最大規模だ。

 また、今回の衝突は、イスラエルがパレスチナのガザ地区とエジプトの境界にある長さ14キロメートルのいわゆる「フィラデルフィ回廊」へのイスラエル軍の駐留に固執したことで、ガザ戦争の休戦交渉が決裂し、イスラエルに対する国際的非難が高まるなかで起きた。イスラエルとレバノンの衝突が拡大すれば、ガザ戦争の休戦の可能性はよりいっそう遠ざかることになる。イランは最近、ガザ戦争の休戦が成立すれば報復攻撃を行わない可能性があるとする意向を表明してきた。

 イスラエル外務省はこの日、イスラエルは全面戦争を追求しないとしながらも、現場の状況の展開に応じて対応すると明らかにした。

 米国防総省は、イスラエルの先制攻撃の直後に声明を出し、「われわれは状況を綿密に注視しており、米国はイスラエルの防衛を支援する体制を整えた」と強調した。

 
 
レバノン南部上空で25日、イスラエルの戦闘機が爆撃対象地域を明らかにする目的で照明弾を発射している。イスラエルはこの日、レバノン南部のヒズボラを狙い、大規模に先制の空爆攻撃を行った/EPA・聯合ニュース

チョン・ウィギル先任記者、キム・ウォンチョル記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

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 猛暑が続いている全羅南道では、養殖場の魚が大量死したとの通報が寄せられている。

2024-08-18 09:11:02 | しらなかった
 

海水温上昇に耐えられず…韓国全羅南道の養殖場で魚が大量死

登録:2024-08-17 07:36 修正:2024-08-17 10:43

 

全羅南道「29万匹大量死の通報受け、調査」
 
 
        全羅南道新安郡黒山面のある養殖場にて=全羅南道提供//ハンギョレ新聞社

 猛暑が続いている全羅南道では、養殖場の魚が大量死したとの通報が寄せられている。

 16日の全羅南道の話を総合すると、前日の15日、全羅南道新安郡(シナングン)のある養殖場から、2000匹のクロソイが死んだとの通報が寄せられた。全羅南道の関係者は「高水温の被害と通報され、現在、正確な経緯の把握に努めている」と述べた。

 これにより、6日以降に通報が寄せられた同道内の養殖場における魚の大量死は、18養殖場で29万3000匹。全羅南道の推定では、被害額は5億4000万ウォン(約5880万円)にのぼる。

 家畜被害の通報もあった。全羅南道は、6月17日から現在までに累計で124農家で鶏、家鴨、豚など16万8831羽/匹の被害(23億7000万ウォン)が発生しているため、調査にあたっていると述べた。全羅南道は「猛暑が長期間続いていることから、養殖漁者と畜産農家の被害が発生しないよう、温度調節などを行うよう指導している」と語った。

チョン・デハ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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強制動員問題は依然として現在進行形だ。先月10~11日、17~18日、日本の富山、京都、大阪で、強制動員被害者を短くは27年、長くは45年にわたり支援してきた日本の市民活動家3人に会い、話を聞いた。

2024-08-16 07:50:46 | しらなかった

「日本の良心」がともに勝ち取った賠償判決…

「なぜ韓国政府が否定するのですか」

登録:2024-08-15 05:50 修正:2024-08-16 07:22
 
【インタビュー】数十年間被害者を支援し続ける3人の日本人
 
 
先月17日に会った「日本製鉄元徴用工裁判を支援する会」の活動家、中田光信さん=キム・ソヨン記者//ハンギョレ新聞社

 尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領が昨年3月、韓日関係の最大争点である強制動員被害者賠償に関して、韓国の財団が日本企業の賠償金を肩代わりする「第三者弁済」を強行し、被害者の苦しみがより一層大きくなっている。「第三者弁済」の受け入れの可否によって被害者が分裂し、日本側では「韓国が処理すべき問題」だとして完全に他人事のように対応しているからだ。強制動員の被害者だけでなく、彼らを数十年間支援してきた日本の良心的な市民社会も大きな傷を負った。

 15日に光復79周年を迎えるが、強制動員問題は依然として現在進行形だ。先月10~11日、17~18日、日本の富山、京都、大阪で、強制動員被害者を短くは27年、長くは45年にわたり支援してきた日本の市民活動家3人に会い、話を聞いた。

 「どんなに悔しかったら、50年が過ぎてもあれほどの怒りを見せるのか。何かしなければと思いました」

 先月17日、京都で会った「日本製鉄元徴用工裁判を支援する会」の活動家、中田光信さん(70)は1997年、強制動員被害者の故ヨ・ウンテク(1923~2013)さんに初めて会ったときのことを今でも鮮明に覚えていると語った。「ヨさんは『あの時(日本製鉄から)お金をきちんともらっていたら、牛を買うことができたし、人生が変わっただろう』と言いました。70歳を超えた当時まで、胸に抱いて生きて来たのです」

 ヨさんは20歳だった1943年6月、日本製鉄大阪製鉄所に強制動員され、溶鉱炉に古鉄を入れるつらい労働に苦しめられた。食べ物も十分に与えられず、強圧的で劣悪な労働環境に耐えなければならなかったうえ、給料もまともにもらえなかった。地獄のような労働は1945年8月、日本の敗戦で終わったが、日本製鉄の謝罪や賠償など強制動員問題はいまだ解決していない。

 
 
2005年2月28日、日本製鉄強制動員被害者のヨ・ウンテクさん、シン・チョンスさん、キム・ギュスさん、イ・チュンシクさんがソウル地方裁判所に損害賠償訴訟を提起する前に記者会見を行うなか、中田光信(写真の中央)さんが発言している=本人提供//ハンギョレ新聞社

 「2018年、韓国の最高裁(大法院)で勝訴した時、大変嬉しい一方、悲しかった。画期的な判決でしたが、結果が出るのがあまりにも遅くなってしまい、訴訟に臨んだ4人のうち3人がすでに亡くなった後でした」。1997年12月、ヨ・ンテクさんとシン・チョンスさんが大阪地裁で損害賠償訴訟を始めたが、2003年10月、日本の最高裁で敗訴した。2005年、キム・ギュスさんやイ・チュンシクさんが加わり4人が原告になってソウル中央地裁で損害賠償訴訟を起こし、2018年の最高裁で最終的に勝訴した。日本の訴訟まで合わせると、21年ぶりの快挙だった。

 40代初め、京都市の公務員だった中田さんは、今年70歳になった。公務員労組で活動しながら社会問題に関心が多かった彼は「韓国人徴用工訴訟を手伝ってほしい」という要請に軽い気持ちで応じたつもりが、「このように長い間共に戦うとは思わなかった」と語った。「韓日を行き来しながらヨ・ウンテクさん、シン・チョンスさんと寝食を共にしているうちに、いつの間にか家族のようになりました」

 韓国人強制動員被害者を捜し出し、法律支援に乗り出すことはもちろん、日本の戦犯企業を相手に抗議活動を行い、宣伝活動や募金運動など、強制動員被害者の長い闘争は日本の市民社会の献身がなければ不可能だった。

 
 
2005年1月22日、日本の市民らが作った「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の関係者たちが京畿道平沢市にある韓国原爆被害者協会畿湖支部の事務所を訪ね、当時下された広島高裁の判決結果を説明している。真ん中のショートヘアの女性が同会の市場淳子代表=本人提供//ハンギョレ新聞社

 日本製鉄強制動員闘争の歴史をしばらく説明していた中田さんは、日本企業の代わりに韓国の日帝強制動員被害者支援財団が慰労金を出す「第三者弁済」の話になると、深いため息をついた。「それぞれの事情があるので仕方ないことだが、一緒に闘っていた被害者たちが二つに分かれてしまい、気持ちが複雑だ」と語った。また「2018年の韓国最高裁の判決には強制動員被害者の人権をいかに守り、回復するかが含まれていた」とし、「これをなぜ韓国政府が自ら否定するのか、理解に苦しむ」と批判した。中田さんは「日本社会は『歴史否定』などますます悪化している。過去にきちんと向き合うのは日本のためにも必ず必要だ」とし、「この闘いをあきらめない」と強調した。

 先月10日、富山で会った「不二越強制連行・強制労働訴訟を支援する北陸連絡会」の中川美由紀事務局長(63)も、28年間にわたり強制動員被害者を支援してきた「日本の良心」の一人だ。

 「1992年にニュースで白いチマチョゴリ(韓服)を着た不二越強制動員被害者のおばあさんたちを見ました。問題を解決しろと涙を流しながら叫ぶ映像でしたが、大変ショックを受けました」。富山で大学在学中に学生運動をしていた中川事務局長は、1996年から本格的に不二越問題に取り組んだ。

 富山にある不二越は太平洋戦争末期の1944~1945年、朝鮮半島から12~16才の少女1089人を勤労挺身隊として動員し、過酷な労働を強いた。1992年に3人の被害者が損害賠償訴訟を起こし、無期限ハンガーストライキなど激しい闘争を展開した結果、2000年7月に日本の最高裁で不二越が解決金を支給するなど「和解」を成し遂げた。これを皮切りに、2002年には弁護士や宗教関係者、市民が不二越強制動員被害者の訴訟を助ける「第二次強制連行・強制労働訴訟を支援する北陸連絡会」を作り、本格的な訴訟闘争に乗り出した。2003年に富山裁判所で訴訟を起こし、長い法廷闘争を続けたが、2011年に日本の最高裁で敗訴した。2013~2014年にソウル中央地裁に再び訴訟を起し、今年1月に韓国の最高裁で最終的に勝訴した。勝訴者は計41人、被害当事者のうち生存しているのは8人だけだ。

 「2010年に不二越の東京事務所前に抗議集会をしに行きました。キム・ジョンジュさんがビルの中にこっそり入り、15階に閉じこもって何時間も叫び続けて抵抗しました。不二越側は大騒ぎになりました」。中川事務局長は「被害者たちは本当に必死に闘った」と語った。被害者たちの憤りをよく知っている彼女は「第三者弁済」について「腹が立つ」と言った。「韓日両政府から徹底して無視される中、被害者たちは孤独に闘った。『第三者弁済』は問題を解決するのではなく、妨害する案」だと批判した。

 「第三者弁済」を拒否する被害者もいるため、闘いはさらに長くなる見通しだ。中川事務局長は「強制動員問題においては私も当事者」だとし、「日本で在日コリアンや外国人労働者などが依然として差別を受けている。日本社会を少しでも変えるために、過去の植民地支配の責任を問う闘いを続けていきたい」と語った。

 先月18日、大阪で会った「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の市場淳子代表(68)は、45年間も韓国人被爆者たちと共に闘っている。広島県出身で薬学部に進学した市場代表は、大学1年生の時の1975年、韓国人被爆者問題を知り、人生が変わった。命をかけて日本に密航し、自身の原爆被害を訴えた「孫振斗(ソン・ジンドゥ)闘争」を通じて韓国人被爆者のことを知り、1979年から本格的にこの問題に取り組んできた。

 
 
不二越強制動員の被害者たちが2010年3月9日、日本の富山にある不二越工場の正門で抗議集会を行っている。被害者たちの後ろでベージュのコートを着て傘を持っている人が中川美由紀事務局長=本人提供//ハンギョレ新聞社

 「1979年1月、原爆被害の実態を調査するために初めて韓国に行きました。2週間の滞在でしたが、ショックを受けました」 。貧しい原爆被害者たちは病院にも行けず、薬草を食べて痛みに耐えていた。強制動員に原爆という「二重被害」に遭った三菱重工業広島造船所、機械製作所の出身者たちが1967年に韓国原爆被害者協会を作って闘争を始めたが、状況はあまり変わらなかった。

 日本の市民社会の支援で、1995年12月、広島で強制動員と被爆に対して賠償を求める訴訟に入った。勝ち目のない闘いだと、訴訟に反対する人も多かった。市場代表は「その時、被害者のパク・チャンファンさんが『私たちが負けたとしても、当時三菱でどんな目に遭ったのか裁判を通じて歴史に残すことができる』と説得し、陳述できる健康状態の46人が参加した」と説明した。

 少しずつ壁が崩れてきた。2007年、日本の最高裁で韓国人被爆者に対する一部賠償が認められた。光復から62年目にして成し遂げた大きな成果だった。その後、法廷訴訟を続け、今や韓国の被爆者たちも日本の被爆者に準ずる恩恵を受けている。強制動員訴訟は2000年5月、釜山地方裁判所に訴訟を起こし、18年ぶりの2018年11月に韓国の最高裁で最終的に勝訴した。

 
 
先月10日に富山で会った「不二越強制連行・強制労働訴訟を支援する北陸連絡会」の中川美由紀事務局長(写真左)と、先月18日に大阪で会った「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」の市場淳子代表=キム・ソヨン記者//ハンギョレ新聞社

 だが「第三者弁済」が出てきてから問題がこじれてしまった。「韓国で『第三者弁済』という案が出てくるとは思いもよりませんでした。とてもがっかりしました」。市場代表は「第三者弁済を受け入れた被害者がいるため、三菱重工業を相手に謝罪と賠償を受けるのがさらに難しくなった」と懸念した。

 「それでも闘わなければ」と言う市場代表が、いつも大事にしている言葉だとして、三菱に強制動員され原爆被害まで受けた故チョン・チャンヒさん(1923~2012)の話を聞かせてくれた。チョンさんは、韓国原爆被害者協会の事務局長を務め、生涯日本を相手に闘ってきた人物だ。市場代表はチョンさんが亡くなる前、最後に会った時に「どうやって生涯にわたって闘うことができたのか」と尋ねた。チョンさんは「いつかは良いことがあると信じてここまで来た」と答えたという。市場代表は「私も同じだ。闘う韓国人被害者と最後まで(行動を)共にする」と語った。チョン・チャンヒさんの息子、ジョンゴンさん(67)は今年3月、東京にある三菱本社を訪れ、「第三者弁済を拒否し、父の闘いを受け継ぐ」と話した。

富山・京都・大阪/キム・ソヨン特派員(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
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