えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

そう、京都行ってきた(番外編)

2009年11月08日 | コラム
:記念館に寄せて:

 河井寛次郎記念館は京都の五条坂を下ってバイパスをくぐり、六兵衛窯を曲がると見える京都の昔の民家のならびにある。ひときわ目立つということはなく、他の看板と同じように、前に並ぶ家に遠慮しておずおずと黒地の木に白地の看板が二階の軒下にかけられているだけである。棟方志功の題字を黒田辰秋が彫りあげた一階の窓にかけられた看板、楚の左の郵便受けの壁のさらに左に、閉じた入り口が待っている。
 手をかけて左に横滑りさせると、戸の上についたベルがころころ、と音の澄んだ土鈴のようにわずかなくぐもりを混ぜた、金属の音色を立てた。暗い。右手の部屋に二羽の兎が向かい合った木彫の置物が、畳の上でひそひそと会話をしていた。すのこで靴を脱いで下駄箱にしまい、奥の灰色のロッカーに鞄と上着をしまって鍵をかけた。荒い網目の藁のマットを踏むこともなく上がり、受付で900円を払う。私は会社につとめるようになっていた。学生証はもう無い。私の顔を見た女性は上の段の引き出しを開けて待っていたが、「大人一枚」のひと言に黙って下の引き出しを開いた。どうぞ、とやまぶき色に銀で模様をつけたチケットが渡された。今年の二月、まだ学生だった私は青灰色の地のチケットを受け取っていた。既に半年以上が過ぎていた。私は会社につとめている。
 茶のスリッパを藁かごから引き出して履いた。河井寛次郎記念館はいつ行っても、ほどよい影に包まれている。顔は見えるけど深くは無い陰影は淡く輪郭を縁取って、誰しもがやさしくてやわらかになるのだ。いつものように自在鍵と子供の等身大くらいの人形が客を迎える。女の子ではない。女の子は柱時計の隣、箱階段の前が定位置のようで、ふくよかな頬ぺたに丸く突き出した唇、丸々と削られて雪だるまのようにぽんぽんとくびれたからだで今日も笑っている。気づくと頭を撫でられているのか、像としての前と後ろの境目、ちょうど髪の分け目になるだろうかの頭頂がすべすべと丸くなっていた。柱時計は無心に音で時を刻んでいる。
 中庭をめぐる細い通路に陶器の陳列室はある。棚はいつつ、箱階段から向って右から二つ目までは殆ど変わらない、河井寛次郎の愛用した道具の一覧。残りの三つに陶器が収まった。今日は、桃があった。青瓷鱔血文桃注。初めて会ってからそんなに時間の経った気はしないのだけれど、初めて会ってから二年が過ぎている。二年目の桃はすこしくすんだ鈍い赤と緑に包まれて、板に寝そべっていた。眠たげな人の目のようだった。桃の下に赤い壺と何かの動物をかたどった、蓋つきの赤い壺がある。つやめいて、あの時見た桃と同じように、舌でとろける赤の壺だった。この棚は、河井寛次郎三十歳ごろ、中国の技術を輝かせていた頃の作品群だった。年代は1920~1925年。形が静かで、肌も水がこぼれるように澄んでいる麗しいものばかりだ。白磁の一皿はアイボリーだとか、クリームだとか、そんな色名をすっ飛ばした雪解けの雪の色だった。
 そんな溶け出しそうな水気のある色が、棚を移るにつれて、徐々に固まってゆく。真ん中の棚を越えた最後の棚は、最晩年の作、河井寛次郎還暦を過ぎてからのものだ。掘り出してきたかのような青銅そのものの、緑の釉薬をまとった壺。ほどほどに晴れた日差しのやわらかい空色の釉薬をまとった小箱。そして底の地も粗いが目の覚める、でもやわらかい白。どれも固まっている。ぐっと色が結びついて、釉薬と陶器が夢中で結びつきあっている力強さと土臭さがある。ただ色そのものは、相も変わらずまっすぐに澄み切ったそのものだった。炎に焼けたレンガの赤と桃の赤をくらべれば桃の赤ははるかに明るいのだが、色に吸い込まれてゆく目はそこに同じ赤を見て取った。河井寛次郎の赤が好きだ。河井寛次郎の赤はたかぶらない。おごらない。まろみを帯びた赤だ。今の心には河井の赤が響き続けている。
 陳列棚を過ぎた。
 茶室を井戸のほうから廻って階段を登り、砂で作ったかまくらのような素焼き窯から空気がふっと変わる。土間に近い灰色のコンクリートにスリッパが響く。作品をよく眺めるためのガラス戸と棚、椅子が設けられているそこは、かつての仕事場だった。あともう少し登れば作品の胎である登り窯がずらりと北山にむかって並んでいる。低い低い椅子に腰掛けた。足をそろえて斜にかけるか、尻をしっかり乗せて脚を伸ばすと心地よくなる。ここの椅子は、どれにかけても尻のすわりがよい。
 中庭を通って母屋に戻った。縁側に腰掛けて見上げると、二階の窓に猫がいた。西日が差して暖かいのか、箱の上に坐って首だけが外にまっすぐと向かい目を閉じている。首に鈴がついていた。箱階段を上がってぶらさがった数珠につかまりながら二階に行った。
 猫は日差しを浴びて外を見ていた。何を見ているのかはわからないが、とにかく丸まって寝ないで首を伸ばしてしゃんと坐っていた。おなじ西日を河井寛次郎の机と椅子が障子ごしに受けて黙っていた。引き出しの取っての丸みの手触りが好きだ。硬いが坐りごこちよい低い椅子に腰掛けて机にかけてみる。ここに来たら必ずやることだった。吹き抜けから柱時計のかち、 、かち 、と呼吸が聞こえてくる。猫は外を眺めている。気づくと身体は腕組みをして、仕事や勉強で疲れたときにやるつっぷしを、河井寛次郎の机に頭をもたせ掛けてやっていた。腕が滑らかに動いて頭を受け止めた。疲れたからそうしたというただそれだけの自然さだった。目を閉じた。柱時計の音が大きくなった気がする。私の呼吸は聞こえない。

 河井寛次郎記念館は静かだ。どの寺よりもずっと静寂だ。それは、机に坐っても畳に寝転んでもどの椅子にかけても椅子を占領していても、誰も何も言わずゆるやかに過ぎてゆく時間もあるけれど、それを誰もが互いに許している心地のよい沈黙が何より先に静けさを作っているのだ。静かだった。眠る直前のように頭の中が心地よく何もなくなってゆく。ものを考えても、柱時計と空気の重み、涼しさと静けさが思考を思索へと変えて深みに連れてゆくのだ。
 
藁の椅子に腰掛けて、河井博次の作を初めてじっくりと眺めた。河井博次はお婿さんだ。お婿さんだが、義理の父の河井寛次郎に触発されて焼き物をはじめた。茶碗を焼きつぼをやき、釉薬をかけて皿を焼き、父ともので語り合った。河井寛次郎の赤なら、河井博次は茶だった。磨きこんだ柘植の櫛のようにあめ色がかった茶色、水の少ない泥を固めたような灰色と緑を混ぜ込んだ茶色に、父と同じ透明感がある。土を掘り起こすような力強さこそないけれど、色の透明な方向が確かに父と同じものを掴んでいた。

 色と、線。私にはわからないものはたくさんある。線。河井寛次郎の晩年の線、焼きこまれた線が私はまだわからない。見ると、なにやら心の奥でざわめいて非難する声が上がるのはわかる。だが非難以外のざわめき、非難は怖いからすることが多いのだが、何か感じたざわめきがある。このざわめきを聞き取った時、たぶん河井寛次郎をほんのすこし、今よりも分かることが出来るようになるのだろう。

 日暮れて道遠し。

 もう一度作品を見に行って時計を見ると閉館10分だった。中庭を見上げても猫はもういない。絵葉書を買おう。私は受付に戻った。
 猫は受付の前でちょっ、と坐っていた。しまちゃん、というんです、とマスクをかけた受付のお姉さんが笑った。しまちゃんは、この近所の猫で、記念館に毎朝出勤しては日向ぼっこをしているのだそうだ。わたしは何回かここへきましたが、しまちゃんは初めてですね、というと受付の人は目を丸くした。まあ、振り返れば、わたしが京都に行くのはたいがい料金の安い冬か真夏なので、さすがのしまちゃんものんびりと日向にいるわけには行かないのだろう。
 しまちゃんはんー、と足を耳元へやって、頭をひとしきりかいてからのこのこと箱階段に歩き出していった。わたしはロッカーの鍵を出した。
コメント
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