えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・『邪悪の家』雑感

2021年03月13日 | コラム
 どの作品にも根強い読者、下手をすれば祖父祖母父母孫まで読者のリレーが続いているアガサ・クリスティーは読む度に切れ味を増してゆくような感がある。ここ数年はハヤカワ・ミステリ文庫から再度新訳が登場しているものの、個人的には田村隆一・中村能三・乾信一郎・中村妙子の訳が安心して読める。アガサの時代の雰囲気を直接日本語に落とし込むことだけは、当時を生きているか当時に近い訳者の特権で、それが残っている訳のほうが約として不確かでも日本語がよく生きていると思う。

 印刷物に使用できない日本語も年々増えているのでなるべく図書館には旧訳も残しておいてほしいと希望を出しているものの、借りたままなくしてしまう利用客のおかげで近場の図書館からは順当に旧訳が減りつつある。非常に勿体ない。瀬田貞二の訳業に対する新訳『ナルニア国物語』など、ある意味でよく出来た仕事だと思う。

 そうした訳の都合に埋もれつつある一冊『邪悪の家』は1932年に発表されたアガサ壮年期の作品で、筆の勢いがのりに乗ったスピードが魅力的だ。登場する探偵エルキュール・ポアロも現役を引退した直後の円熟を迎え、その人となりを生かした心理戦が本作の見どころだと思う。引退を記念して保養地で優雅に過ごすポアロと相棒のヘイスティングスは、珍しく負の遺産を背負った若い美女ニックと軽く会話を交わす。少々変わった御仁らしく三回も命を狙われたのだと冗談めかして笑う彼女に対してポアロの表情は真剣だった。なぜなら丁度二人が彼女に出会った時、彼女の被っていた帽子に銃弾の穴が空いていたからだった。

 表題『邪悪の家』の原題「Peril at End House」と見比べながら本書を読む意味についてはそこそこの種明かしのため割愛するが、なぜ登場人物たちの会話を重視しながら進む作品にもかかわらず「家」が強く関わってくるのかという点に焦点を合わせると仕掛けの面では読みやすくなると思う。けれども最初は美女と保養地の構造から始まり、銃弾と企みの進行にヘイスティングスと共に振り回される愉しみを味わいたい。仕掛けそのものは単純明快な一方で、それが複雑になる理由こそが本書の肝心かなめとなる。幾何的なトリックもなく、気楽に手に取りながら、登場人物の心理のもつれた糸を慎重にかつ大胆に運ぶアガサの手腕を愉しむにはうってつけなので時々この本を手にとっている。

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