オミクロン株の更に変異、ステルスオミクロンBA.2なる変種のコロナウイルスが既に世界60数か国に見られ(3月時点。現在はBA.1とBA.2の組替え体XEが既にみられる)、その現行ワクチン効果の不可測性やら感染力の強さなど明らかに見られ、今後益々複雑なパンデミック状況を予感させる事態(既にオミクロンBA.1系は高止まりし、更に追い打ちをかけるBA.2感染が急拡大するとみられている)へ移りつつある2022年半ば、この期に及んで暫く世は先の北京冬季オリンピック(どうでもいいルールの偏頗な適用やおよそ下らない薬物問題が幅を利かせているが)などにうつつを抜かし、日本国政府、東京都(維新に乗っ取られた大阪の惨状は目も当てられない)などは無為無策の極みに陥っているにも拘らず、白紙委任状を自公系政治へごみを捨てるように!投げかけ、愚策悪策無為無策玉虫色の政治を何となく容認して、自ら墓穴を掘る(国民側の)愚民馴れがじわじわとこの国を浸潤している(これがこの国の抜きがたい国情というものなら言うことはない)。
元々国家安全保障思想が戦後その土性骨を失っている(敗戦による負け犬根性が染みついている)ので、(本来的な)危機管理という概念の核として最悪の事態を前もって想定することに置いていないこの国には、結局は、いつ何時でも現実に目を覆う事態が起こりうるのだと、国民の方で今更だが肝に銘じる必要がある。
M9以上の大地震が2011年3月11日に三陸沖で発生し、かつてない大津波(遡上高40m超え)が太平洋沿岸各地に、稀にみる激甚さで襲い掛かったあの大事件のことは、自然が人類に与えた警告という意味でも、日本人はじめ人類が、安全保障上の重大な貴重な教訓と受け止め、かつあの時福島原発がこれにより、深刻で計り知れぬ放射能被害を齎した事実と真摯に向き合い、少なくとも戦後、科学的根拠なき安全神話で国民の目を覆った、責任上到底免れようもないこの国の為政者たち(ほか所謂原子力マフィアたち)には、必ずその罪過を洗い直し、逃すことなく断罪すべきと国民自身が決することだ。それは未だ、過ぎ去った時代の遺物であろうはずはないし、「のど元過ぎれば」のありきたりな扱いで見送れるような、特殊に想定外で例外的な事象でもない、今後いくらでも起こり得るし、現に世界中で脅威としか言えない自然現象(大洪水、大地震、噴火、殺人寒波)がこれでもかと起こり続けている。
その自然現象の最たる現在進行形が、この世界的パンデミックのコロナ禍にほかならない(如何に楽観視して馴れ合いの心情に支配されても事実は脅威と恐怖をそこら中にまき散らしてことに変わりはない)。
そのコロナ禍が2年越しで繰り返される現状は、(オミクロン株は)「重症化しにくい」「死者数がインフル以下」などという、当初の甘々な見立てで軽易に扱いきれない惨状(感染後遺症やワクチン接種による事故の報告も多々あり)を呈しているわけだ。何故か?その禍に実際見舞われない者には所詮対岸の火事としか受け止められず、幸運にも感染地獄から恐らく偶然に免れている非感染者の恣意が勝って、数値上に少しでも収束傾向が見られれば、それだけで何らの科学的解析も明示せずに、「コロナの特性(一定の周期性で単純な波形を示す自然現象)」から、そのうち止むだろうといった短絡的結語に安んじる根拠なき楽観主義が多く蔓延しているのだろう。
この楽観はそのままこの国の国防思潮にも当てはまるのだが、この場合は逆に、即時即決では決して機能しない日米安保体制に関する盲目的な支持と不合理な軍拡政策(自衛隊の国防軍化と米軍用兵化)が、憲法理念の打ち壊しを旨として「敵基地攻撃能力」なる物騒極まりない議論とともにまことしやかに為され、大いなる貧窮国ロシアの自暴自棄なウクライナ侵攻事件をとらまえて、さまざまに愚論、火事場泥棒的言上げ、跳ねっ帰りの飛躍をネトウヨ的自由主義者たちは、水を得た河童並みに喧々囂々、暇人的な大騒ぎを繰り返している。
少なくとも我々人間の視点は、「戦争」の実態が必ず無辜の民、老人、婦女子の身の上に降りかかる惨たらしい犠牲の矢弾(やだま)として顕現し、国家や指導者、権力者の全体主義的エゴ、言い訳に過ぎない「正義の戦争」言上げをまことしやかに並べ立てる情報網に乗せられて、真実を見損なうことがないよう、文脈のリテラシに留意することだろう。