既にこの自公政権とその内閣においては、本土内地ヤマトゥの、安全保障に関する日本国民黙認の国家政府防衛省が、その本土からは遥か僻遠の海中にある琉球島嶼を、恐らくは戦後すぐ昭和天皇が、絶対的なお墨付き(理屈の通らない問答無用のお触れとして)を日米政府に与えたであろう「防共軍事要塞化」に供する国策の一環として、与那国島、宮古島、石垣島に自衛隊という、国際的にはれっきとした暴力装置としての軍隊を配備し、沖縄島では20年来懸案として宙に浮いていた「普天間飛行場代替施設」としての「辺野古新軍事基地建設」に、今までになく具体的かつ現実的に取り掛かった。その在り様はとうの昔に民主主義をどぶに捨て、一民族に特化した顕著な差別主義に則り、自然破壊のそしりも物ともせず、やがて活断層の走る「マヨネーズ」海底地盤の上に異国の軍隊のためにのみ寄与する(果たしてそれは実質的に真逆の内容を呈している)「砂上の楼閣」の北部一帯一大軍事基地をでっちあげるのだが、それは言いたくないが安倍晋三一流のおふざけな「やっつけ仕事」と化している。しかし、国民は黙認している。
辺野古で沖縄で、こうした国家政府の動きに抵抗する運動としてある一連の市民活動は、この昭和天皇お墨付き、問答無用のお触れが持つ金科玉条的錦旗的性格に包まれた日本国の所謂「国家専権事項」に対して、ほぼ本質的な意味での「無力感」だけを感じさせられる流れとなっている。それは同時に、70年以上を経た日本の戦後民主主義の完全な敗北、無効化として印象されるし、実際、所謂「post truth」的右傾化は、様々な局面様々な場所様々な現象において居丈高にずうずうしく「大きな顔」をし始めている。例のネトウヨに始まるヘイトスピーチなど、かつては確実に市民生活から排斥されたものらが「大手を振って」街を闊歩し、市民運動に罵声を浴びせかけ、けたたましい街宣でおのれらの不気味な相貌をさらし続けている。
何故、見て見ぬふりをする本土内地ヤマトゥの日本国民とは明かに相違する反応として沖縄の戦いには弛みのない歩みがあるのだろうか?島津侵攻、琉球処分、沖縄戦、米国支配、密約核・基地付き返還、その他、沖縄琉球が自ら招いたわけではない、本土内地ヤマトゥの日本人が侵略的にやってきた結果として生じた不本意にして不如意な境遇、それらから自然に、立ち上がらざるを得ない自らの運命を認識しているからだ。少なくとも加害者にほかならない本土内地ヤマトゥの日本人は、そのことを弁えている必要がある。琉球沖縄は日本人によって繰り返し痛めつけられ、今後も彼らがそれを繰り返すことを既に知ってしまっている。「国家専権事項」などという法律はない。ところが彼らはそれを錦の御旗として、官軍並みに傍若無人に沖縄県土を蹂躙している。
ところで、今沖縄でこの国がやっていることは、例えば辺野古の美しい海に薄汚れた土砂をぶち込んでいるような行為は、そのまま国としての滅びの道だと、冥土への一里塚だと、本土内地ヤマトゥの日本人は自覚するべきだろう。平成天皇の引退は同時に日本の正統な歴史的見識がその理念性を喪失し、行く当てもなくなった価値観が転びの泥濘にのたうつ時代が来ることを象徴している。(つづく)