沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩371 敗戦 4

2012年09月03日 21時45分54秒 | 政治論
 我々は何をなすべきか、と問うとき、我々とは何か、何ものであるかという問いはその前提としてなければならない。ところが、何の問題もないのにそれを問うということは、多くの場合(純粋理性批判でなければ)初めから無意味なことになる。問題があるから、「我々」という言辞の規定を求められる、と考えたほうが効率的であろう。だからこの「我々」は、ある問題から派生した共有される核を持つ一群としてのみ、一括された集合体とみなされるものである。それは例えば簡単に言えば日本国憲法における「国民」だとかいう感じのものだ。しかしながらある集合体にあっては、この、「国民」という括りほどまやかしに満ちたものはない、という経験則を自ずから与えられたのであった。「国民」という括りの雑な篩のせいで本来正当である主張が無視される、軽視される、国家施策と対置させて論じられる、ということが起こる。この、「無視され、軽視され、国家施策と対置される」という述語に係る主語である「我々」がなすべきこととは何か、と問う前にとりわけ「国民」という括りから振い落された存在とは一体この国においていかなる存在として捉えるべきか、を問わねばなるまいが、それはまさしくほかならぬ「国民」によって「無視され、軽視され」ていると、「我々」には捉えられているのであり、従ってここに言う「国民」は「我々」以外のものとして存在しているものに違いないし、「我々」は、国家とその国民によって「無視され、軽視され、国家によって、国民とは別に国家施策と単独に対置させられている」者として存在させられている。つまり「我々」は、この国の国民ではないし、この国の国民によって、単独に国家と対置させられている唯一の同国人なのだ。同国人でありながらその国の国民でない者とは一体何か。それはおそらく極めて観念的ながら少しく実感されもする隷属的存在、囲い込まれた「翼のない家禽」(逃げ場のない俘囚)、とも言えるが、実際はその文化的個別性においてこの国のなかでも異種な独立性を有する単子としてむしろ自由な空間を形成しているのであり、それゆえにこの国の中でその国家施策の実践を「価値」という篩によって絶えず「反価値、非価値、または圧制」から峻別し自律的にこれを享受する、または拒否する、おそらく国内唯一の行政単位と化しているのだ。この「価値」という実質は勿論主観的個別的観点で取り上げられるものではなく、主体的でありかつ普遍的客観性の保証を得た視点において据え置かれなければならない。例えば「環境汚染」「環境破壊」に関する展望、とか、「平和」「安寧」「幸福」「人権」とかいう「価値」である。もしかすると他府県においてもそうした自治性は確保され実現されているという主張があるのかもしれない。しかし彼らは望むと望まざるとにかかわらず一度としてこの国の「国民」でなかったことはない。「我々」は望んでさえ「国民」ではなかったし、望みもしないのに「いつの間にか」国家に組み込まれていたし、当然ながら国家のなかの特殊な一存在という空気のうちに「国民」が経験したことのない地獄へ突き落とされた。誇張して言っているのではない、「我々」は国連人種差別撤廃委員会が(もしこれが自己の存在価値をただの理念的アリバイのためにあると認めたくないなら)この国に対し実効性のある是正命令を下すべき当然の義務を負うと思っている。
 では、かかる存在である「我々」は今何をなすべきか。(中断)


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