沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩615 沖縄の独立

2016年06月29日 17時42分13秒 | 政治論

 80を超えた老婦人が沖縄移住するということは、言って見れば長年住み慣れた土地と家を捨て別世界に足を踏み入れるということで、そこには想像を絶する不安、定まらぬ生活ルーチン、あるいは人間関係の煩わしさなど、いくつものクリアしきれない問題がどっと押し寄せて、さながらパニックともいうべき事態が生じているものと想像する。当然同情しないわけにいかない。

 かかる激変する環境に惑わされ振り回されることで図らずも認知症的反応が見られるようになるということらしい。つまりそれは人間として極めて自然な成り行きかもしれないのだ(勿論そこに脳機能的な老化があることを認めなければならない、特に記憶域の減衰は避けられないものとしてある)。

 一方その周辺に、ほぼ同一空間で同居する家族等にとって、老人の認知症は一つの生活上の不安定材料としてのみ現象する。全人的な対応でさえ、しばしば攻撃的反撃的な軋轢を避けることができないで、半ば不本意な傷つけあいとなり、介護的な意味の隔離策を取るはめになる。これがデイサービスの内の通所介護になり、1週間のうち休日を除く数日間は日中(9時から5時までとか)施設でのリハビリ生活をすることになる。この場合のリハビリとは、例えば被害妄想的な反応(物とられ妄想など)から家族を攻撃的に責め立てる、といった生活上の障碍の緩和策として社会性の安定的回復のための種々の試みがなされる。集団的生活の正常な継続に必要な精神的な和合感覚、協調性などの抽出である。

 当然ながら認知症患者に対する個別的な憎悪感というものは元々あり得ない。にも拘らず社会面に度々載せられる介護殺人というものは何故起きるのか、というとそこにさながら「高瀬舟」的な心理乃至意識あるいは思考回路が芽生えるということになる。つまり広義の「安楽死」だ。但し純粋にそれは法律的な問題にしかならない。道義的な問題は結局情状酌量の度合いに応じて他人が勝手に評価するだけの話で、当事者の問題は常に「安楽性」の追及に落ち着く。個人の、又は介護者の、あるいは近縁者の。このことは、現代的で悲劇的な、重要な人間的意味を示唆する。

 例えば、テロはどんなことがあっても許せない、と大方は言うが、その割には肝心の「大きな暴力性」についてあまり言及しないのが現今欧米系世界情勢と受け止められる。この場合その大きな暴力性の張本人が米国だからだ。

 沖縄の市民運動乃至沖縄的抵抗もこの「大きな暴力性」に対峙している。大きな暴力性とこれを推進追認し代替する、「暴力的支配性」を代表するのが日本国家である。それも国民あげて陰に陽に差別的暴力を実行している。

 米軍基地があっては安心して暮らせない、という状況が沖縄にある(それは具体的な被害として既に様々な質の例示を見ている)。一方この窮状をいくら訴えても聞き入れない日本国家がありその国民にも情報は浸透せず、又彼らだけのエゴイズムが何気に幅を利かせている。「対岸の火事」「火の粉が降りかかる」「非当事者感(安保容認ただ乗りの当事者だ!!)」というのは、どう考えても不作為の、未必的故意になる利己主義的暴力だ。

 琉球独立は日本国属領の現実的立場の悪条件に絶望した国民としての分離であり、同時に、独立しうるアイデンティティへの覚醒を根底で前提する。繰り返せば、琉球の分離独立は、一つは現実的な財政的憂慮をクリアしなければならないが、地理的に現今の位置関係が変わるわけでもなし、元々各国交易の中継位置に存する沖縄には以前の独立していた経験が現代的に蘇る話で、国際関係上の危惧が最大限触発的にあるのでなく(中国に琉球侵略のメリットはないし、北朝鮮は米国を交渉目途としているだけだ)、良好な関係性の構築という在り様での「万国津梁」精神がある。むしろあらゆる憂慮が杞憂となる方が確率的に高い。それだけ現代の国際関係的保障性が人類的共感を得ているのだ。安倍晋三のような私的政治家の対中脅威論喧伝などゴミのようなものだ。(つづく)

 

 

 

 



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