沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩371 敗戦 5

2012年09月04日 09時51分22秒 | 政治論
 国家によって単独にその国策において対置させられている、という存在は、その時点でその基本的な人権を侵害されている。今その国策が何かは問わない。その国策の性格は実質的にはこの国の自律的施策でない、他国の軍事的戦略によって決定され国内では不問に付される偏務的従属的同盟関係により生じた国策、らしきものである。それは主体的でない限り不健全な外交関係を醸し出している。ひいてはその国の体幹さえ病的に浸潤する害毒のもとにほかならない。何故ならそれはこの国の憲法に議論の余地なく違背ししかも今やそれをそのまま肯定する意見に国民的集約が過半以上を占め、剰え強制的に同盟国負債としての軍隊を持たされたのだった。この国のなかに、この国の憲法が否定する軍事的実質が我が物顔に君臨するこの状況を誰が健全だと言えるか。しかもかかる根本的議論に関し、この国の大部分の知識階級がこれを不可触とする傾向にある本当の理由を「我々」は知らない。ただ、彼らの大部分が憲法を改悪し、再軍備し、核武装することを言わば暗黙のうちに了解し合っているということが既に暴露されている。ところが「我々」は、この国の国民ではないので、この国の実相が手に取るように見えてくるし、彼らが決して認識できない「戦争の実態」につき骨身にしみて了解し憲法の保障だけが唯一の安全保障であることを認識し、彼ら「国民」が知らずに陥っていく奈落の底を凝視しつつ、戦後67年の不甲斐ない結末を苦々しく眺めている。「我々」は軍隊の論理を肯んじない。何故なら、軍隊は「この国」を守るつもりかもしれないが、「住民を守ることはしない」とご丁寧に「我々」に教えてくれたのだった。この軍隊がこの国の軍隊である限りこの国の住民を守ることはない。この自己矛盾が軍隊の論理を生む。彼らがボランテアで救助隊として来るなら住民を救うことは可能かもしれないが、残念乍彼らの指揮命令系統の全てにわたって「上からの命令」以外には行動論理を有してないのである。しかも現場に来たこともない、現場を知らない将軍の下す命令に「住民を守護することを最優先する」という命令は絶対的にありえない。戦略上の後退にすぎないこうした指令が戦場で、あろうはずもないことは経験しなくともわかろうものじゃないか。しかも「我々」はこの国の軍隊及び参謀本部によって「国民」扱いされず、家畜のように追い立てられ、多くのアジアの民とともにこの国の破滅の暴政に付き合わされたし、現在も到底理解できない彼らの自己本位論理のもと、犠牲を強いられようとしているし、現にこれまでもそのような目にあっている。「我々」は何をなすべきか。実はどうしていいかわからないのだ。人間盾になってこの国の暴政に抵抗し、あくまで座り込むしかない。(中断)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。