沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩608 沖縄について考える 1

2016年01月21日 19時57分41秒 | 政治論

 「独裁者の妻(おんな、とルビがある)たち」 アンティエ・ヴィントガッセン著

 近現代の数多の独裁者たちの中にあっても、ナチスドイツ宰相アドルフ・ヒトラーは、恐らく人類史上においてさえその残虐さと恐怖政治そのものにおいて際立った存在ではあるが、この著書ではヒトラー異聞に関する「屋上屋を架す」流れからこの稀代の有名人の「おんな」について更に紹介するまでもないと省略されている(或る「禁断」書ではロリータコンプレクス者としてのヒトラーの女性遍歴が語られている)。読者も今更これを詳らかにする必要性を感じないだろう。勢いヒトラーに代わってベニート・ムッソリーニを挙げたのは当を得ているかもしれない。このムッソリーニの妻(おんな)は正妻でなく愛人で、しかも彼と共にその遺体をミラノの街頭に逆さに吊るされたクララ・ペタッチだった。因みに正妻のラケーレ・ムッソリーニは戦後生き延び普通に89歳の長寿を全うしている。

 ここで挙げられている所謂「独裁者」は、ムッソリーニのほかスターリン、フランコ、毛沢東、チャウシェスク、ペロン、ホーネッカー、チトー、ミロシェヴィッチといった顔ぶれだが、書の主題は飽くまでその妻乃至女にあるので、彼ら「独裁者」の事跡がそのまま我々の印象通りの悪の支配者、独裁者のものとは限らない。同時に著者のある種の主観も文脈には滲んでいる。

 彼女たちは一様に、その意志の有無如何に拘わらず権力とこれに付随する人間的な欲望の対象を飽くまで追い求め、これを得て倦むことがなかった点で共通している。女性蔑視とも受け取られかねないが、本能の赴くがまま贅の限りを尽くし権力に媚びすり寄るありきたりな現実的直接的な志向態度は、恐らくは彼女たちの赤裸な真実を無残に人間史に刻み込む以外には我々に何らの意味ある真理の一つも残すことはなかった。だが彼女たちの存在がいつもあり得がちなものとして思えてくるのは不思議ではある。この世という浮世の頂点には、主に男性史のように見える人間史とは論理的に乖離した女性的な情念の世界が君臨している。カフカ「詩人はこの世では、最も小さい単位にさえなれない存在ですが一方女性はこの世で最大の存在です」。パスカルの「クレオパトラの鼻」や玄宗皇帝における楊貴妃、あるいは閔妃、西太后、武則天、北条尼将軍など史上にその不思議な実力を発揮した女たちの実例に事欠かないが、芥川龍之介は男性を「永遠に超えんとする者」とし女性乃至母性を「永遠に守らんとする者」とした。この永遠性を否応なく納得させる事実として我々の実感が跡付ける。

 辺野古闘争には20年以上にわたって変わらない沖縄県の人々の、何ものかを拒絶し守ろうという持続された根底的な意思が横たわっている。その中心には沖縄戦があり、島津侵攻以来のヤマトゥによる琉球凌駕併合同化の歴史があり、民族的アイデンティテイ自覚があり、「チュラウミ」と呼称される目にも鮮やかな海があり、希少生物が息づく亜熱帯樹林帯があり、そして一度として自ら招じ入れたことのない米軍基地が、日米政府の恣意によって我が物顔でのさばっている。

 何を拒絶し何を守ろうとしているか。永遠に超えんとし、同時に守らんとする「人間」であろうとしている。価値の寄り付きを見失い安穏で自堕落なこの世に執着する”さが”を断ち切り、人らしくあろうとしている。政府権力による「アメとムチ」の浅はかさを軽蔑し、これ以外に説得(懐柔)の手立てがないヤマトゥの度し難い愚かしさをあざ笑い、大国強国に媚び諂う女々しい負け犬根性に嘔吐の気を禁じ得ないのだ。その在り様はまさに価値観を喪失した権力の亡者以外の何ものでもない。男らしくもなく又、永遠に守らんとする健気さもない。つまり人でない。

 どういうわけかこの本に接してそう思った。沖縄のことは結局精神の問題にほかならない。しかもそのことに気が付かないヤマトゥ自身の問題だ。(つづく)

 

 

 

 

 



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