沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩407 日本の生き死に 2 封建制鎖国状態

2013年05月28日 10時55分33秒 | 政治論

 オスプレイ飛行違反の事実は確認されなかったと、防衛省は沖縄県に通達するというのだが、確認されなかった、のでなく、彼らの認識力では確認できないことにしたのだ(誰が見ても合意違反飛行をこれでもかと繰り返しているんだよ)。

 つまり米軍に対する政府筋の抗議申し入れは不可能だということであり、そのことを沖縄県は額面通り受け取らねばならない。この国はアメリカ合衆国50何番目の属州にすぎずしかも限りなく非連邦制の実情に甘んじる自律性のない国なのだ。

 アメリカ軍は日本国において自由な制海制空権を行使し、民間における危険騒音環境破壊回避の施策には全く配慮しないことになっている。橋下というウスラトンカチがいみじくも示したように、沖縄県の県民の人権乃至憲法上の基本的人権というのはあくまでも米軍展開の自在性を前提して「二の次」に置かれるのであり、さながらこいつが自ら墓穴を掘った「従軍慰安婦」への自由な?口軽な思考意見開陳が、世界中の顰蹙を買ったことに呼応して、日本国政府とその体制べったりどもの「反世界性」が如実に証明されてしまったってえ寸法だ。

 日本の実情は極めて通俗な意味での鎖国状態に落ち込み始めた。幕藩体制が百姓は生かさず殺さず(沖縄は生かさず殺さず)で、諸法度は体制確保のためには無為徒食の特権階級からさえその自由を強奪し、人民を身分制度に縛り付けて行動の自由を奪ったし、全てのヒェラルキーは江戸の将軍に極まった。同様に今や日本国はアメリカという将軍に忠実なる君臣と化し民がそのためにくたばろうと知ったことじゃない、地位協定という身分制度で民の生き死には米兵の犯罪が「公務」にある限り「犬死」に堕し、中韓打ち払い令に則り攘夷か否かとすったもんだしている。与那国に砲台築こうと地元ともめているが落ち目の好戦家共は所詮民のしたたかさに辟易するがオチだ。辺野古に埋め立てはできない。一揆でもなんでもしてやれ。(つづく)


詩407 日本の生き死に 1 世界の中で

2013年05月28日 09時15分17秒 | 政治論

 日本国が今後どう生きていくかという問いには、果たしてこの国は本当に生きているのかということと、生きているとすればどこにどう生きているのか、という二つの前提となる疑問に答える必要がある。

 そしてこの二つの問いに対する思考検証はそのまま、この先どう生きるかという問いの周辺におのずから回答らしきものを散らすに違いない。シュペングラーは、ある超絶した繁栄を成し遂げた文明が、凋落滅亡の運命を辿る歴史的必然性を法則的に捉えようとして「西洋の没落」他を著したのだが、ナチスドイツはこの法則を、言わば西洋的傾向(西洋中心主義)に対立するドイツ「蘇生」の劇的契機とするための反証とし、アーリア人の優越性を絶対価値としてその第三帝国建立の根拠としたという、シュペングラー自身が望むと望まざるとに関わらず当時のドイツの全体主義者たちに利用されたわけだ。

 思うに「第三帝国」という発想は、既存の地上権威の絶滅という認知があって初めて生じる、言わば絶望からの起死回生を意味するものと考える。逆に言えば自己自身の滅亡を自覚したからこそこの「理想国家」は夢のようにたち現れたということだ。だがこの「理想国家」が現実に企図したのは、異種他種別種の人類の根絶と劣等人種の確置及びその排除だった。

 当然そこでは文化遺産の振り分けとして「焚書坑儒」や「退廃芸術」指定といった孤絶する古代的企てが平気で実行された。その、ある意味壮大なワグネル的展開を今日眺望すると、その功罪はどうあれドイツ観念論の系譜のここまで人を引きずっていく力があることに今更瞠目せずにいない。

 既に没落する文明としての西洋に見切りを付け、アーリア人優越主義の赴くがまま第三帝国を構想したヒトラーナチスにあっては自身の中の「西洋」という内省は限りなくゼロであった。

 これが日本では、東洋アジア蔑視のなかの自身の東洋アジア性への透視の欠如を準備した。日本にとって、というより日本のエリートにとって、現今朝鮮中国への愚劣な反動的対応は明治維新以来欧化し富国強兵し、日清日露戦をまぐれ当たりに勝利し、不平等条約で欧米に貶められた自身の20世紀的屈辱の「腹いせ」にすぎないことを、大東亜戦の決定的敗北においてさえ未だに悟らない「餓鬼っぽさ」の証明として世界の「常識」には捉えられている。世界の常識は世界史にほかならない。それは現代史だ。既に現代の歴史的概観において世界は先の大戦の評価が根本において決定していることを承知している。もしその歴史的評価を覆すならそれは直ちに反動と看做される。(つづく)