所謂日本国内の日本国憲法に則った議会(代議)制民主主義の筋に沿って、一行政単位である沖縄県が「総意」として示した各市町村議会とその首長、並びに県議会と県知事による「普天間飛行場返還」問題に対する県内への代替施設設置を拒否する決議がこのように明確に存在している状況につきこの国の返答として投げつけられたのは、あいも変わらず繰り返す「引き続き沖縄県民に基地負担をお願いするしかない」という、国がその民に対し言うべき言葉ではないものであった。
一行政単位の、制度的ルールに則った方法での「主権在民」の権利部分に依拠する「基地負担」の拒否行為を、しかも20年近く全く進展しない事実にさえ目をつむって受け入れようとしない国とは一体いかなる存在か。
既に常識的には人間業とは到底評言できない事態だと言わなければならない。この問題を「諸国民の提携」たる国際連合が世界的人種差別問題として正式に取り上げないことも、常識的には世界理念の堕落と捉えるのが正確な時代批判と思料される。
9.11同時多発テロが米国中枢を震撼させたあの恐怖に満ちた瞬間は、ある世界傾向への対極的情念がこの世に確実に存在することをまざまざと見せつけたが、同様な「非暴力」の蓄積された情念が、沖縄県においては「座り込み」「抗議行動」「デモ行進」「シュプレヒコール」という形で実地に表現されているし、そのインパクトと実効性は既に「辺野古」において明確に証明されている。
オスプレイが強行配備されたのは、こうした大衆運動の無力を意味しないで却ってアメリカ合衆国による、日本国の沖縄県に対する侵略的性格に成る覇権主義的植民地主義を如実に示した蛮行と捉えるのが正確だ。
アメリカ合衆国の犯罪は「パクスアメリカーナ」という、一種の極言された「単独安定」つまりは一国人権実質集中化、一極化現象による「世界的格差」の不当な利用と放置乃至武力制圧弾圧行為にかかって、国際司法的に断罪されるべき国家体質というべきところだ。
いずれにしろ「普天間飛行場返還」は、代替施設の設置を条件とする何らの理由もないし、即時閉鎖原状回復全面返還ということが沖縄県の県民の人権保護上当然に要求される内容である。米国政府がもしどうしても代替施設がほしいというのなら沖縄県以外の46都道府県で平等に負担するべく国内協議するべきだ。
しかし最近の米国国内財政事情やらシンクタンクあるいは有力紙、上院議会の提言発信には在外米軍基地の全面撤退を論う方向性すらでてきているわけで、時代の趨勢は「正当な人権」行使の当然な実現を達成しようという、まともな動きを示しつつある。但し、アメリカの産軍複合体戦争経済主義がそうやすやすと白はた上げるとも思えず、原発再稼働同様に泥仕合は避けられそうにない。故に人民闘争は一層熾烈になっていくと心しなければならない。(つづく)