沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩398 沖縄からのメッセージ 35の17

2013年05月09日 11時27分32秒 | 政治論

 興味本位で言うなら、例えば17世紀の「薩摩侵寇」は琉球王府に対する島津藩の武力制圧事件にほかならないが、日琉同祖論の立場で言えばこの併合行為には言わば同一民族の体制的合流(幕藩体制組み込み)以外の意味は存在しない。仮に日本国による琉球の被抑圧性を論うとすればそれは事実上琉球王府の王族はじめ特権階級においてしか存在しない感覚であり、中国が今更に遡って琉球王国を中国明清の属国扱いする論を立ち上げるなら、中国自身が現代において沖縄琉球を人心抑圧しようとしていることになるじゃないか(これは人種的民族差別行為にほかならない)。この「矛盾」が意味するのは中国にとって第二次大戦、戦後処理の時点で置かれた自国の窮状から、言わば暫定的に琉球島嶼を手放さざるを得なかった事情を強引に主張することによって、尖閣諸島に対する領有権ゴリ押しの圧力を日本政府に加えようとしている、という、甚だ低次元の外交戦略としか言い様もない。しかし沖縄の人民的立場に返ってこれを眺めると、中国が沖縄を、日本国と米国による、住民の大規模な反対運動反軍感情とは別の、他県に比して偏頗な過重基地負担の継続状況というのが、「民主」的な政府的行為とは言い難いことに注目している、というふうな見方もできる。このことについて中国はおくびにも出さないが、それは内政干渉あるいは日米両国への不用意な挑戦にもなるわけで、そんなことは外交熟練の中国人がするはずもない。いずれにしても大国どうしの太平洋を巡る無神経な駆け引きの具にされる沖縄島嶼にとって、米軍基地同様に、あるいはオスプレイ並みに「小うるさい」蛮人どもの相変わらない餓鬼道を、ため息混じりで見つめるばかりだ。(つづく)