安倍晋三には「歴史認識」などない。
まず基本的に「認識」とは何か、内在・外在する事物、事象、存在に対して知覚受認し、これを自己自身において経験化(追体験等)し、本質として識別することである。
重要なのは「経験化」と「本質として識別する」のふたつだが、これについてかつて小林秀雄は「認識は創造」といったように、この作業ひとつだけでも悠に一個の著作が生まれるほどに極めて重要な文化的行為そのものなのだ。
彼は「認識」したのでなく、ひとつの定見に基づいてある政治的な「主張」を試みただけである。だから彼は、大日本帝国の侵略行為についても従軍慰安婦についても「俺たちはやってない(我々の爺様たちはそんなことやってない)」と半ばひいきめにいいたいだけの話で、なんら歴史科学的試論に値しない戯言という他ない。
その証拠というのでもないが、アメリカの有力紙やら政府筋からいちゃもんをつけられた途端に言いブリを変える方向へハンドル操作し始めた。彼は基本的にアメリカの忠犬だ。尤もそれ自体戦後政治権力に共通する性格としてなんら目新しいことではない。着目するところは、この「軍国主義一派」が戦無派であり当然実際の体験を踏まえてないし、さながら負け知らずの戦時参謀たち同様に、「やってみなきゃわからない」程度の認知能力で、国策に運命を左右されるべき人民に一顧の配慮もなく、おのが主張を傍若無人に通そうとしているのかどうかだ。
TPP交渉への傾斜の内にこれに似たものを感じるのは穿ち過ぎか。参謀本部がABCD包囲網によってその退路を絶たれ、日本国崩壊、領土分裂の憂き目に合うから戦争しかないとばかり玉砕戦に突入したのは、いずれにしろ結果的にも自殺行為にほかならず、人民を顧みない国家主義的逆上行為なのだが、この事実を踏まえて戦後があり、そこに歴史的教訓が生まれ、この歴史的失策への反省を促され、歴史認識への昇華に努めるということが始まる。
つまり安倍政権が反面教師的に示しているのは、現代日本においてこのように、この国の大団円を齎した戦前の日本に対する、まともな考察さえ損ねるようなあゆみを、戦後の我々乃至先達はしてきたということさ。ここで国民に向けはっきり物申すなら、国が誤ってやっちまった責任を人民はただ歴史的な認識として把捉するのであり、その将来への責任だけをその行為において自ら負うのだ。これが、後代の人間が歴史に学んでこれを経験化し認識するという行為の結語であろう。(つづく)