◇ 海野宿から上田宿へ
田中宿からおよそ3キロほど歩いて海野宿入口に着く。
そして「白鳥神社」。この地の豪族であった海野氏の氏神で、白鳥になったという日本武尊
を祀る。
海野宿は長野県では中山道の妻籠宿、奈良井宿に次いで重要伝統的建造物群保存地区
に認定された。
媒(なかだち)地蔵は婚期が遅れていた加賀様の姫がお祈りして良縁に恵まれたという言い
伝えがある。
街道の中央部を用水が流れている。梅花藻の咲いていた中山道の醒ケ井宿を思い出した。
建物は出梁(出桁)造り、蚕室造り、海野格子(長短2本づつの縦格子をやはり2本づつの横
格子で支える)など独特の構造を持つ。また鯱瓦、本卯達(梲:うだつ)、袖梲、軒梲などが上が
った建造物が軒を並べていて、街道の雰囲気を満喫した。
生憎と予報を先取りした雨が落ちて来た(ただ弱い雨で間もなく上がって陽が差してきた)。
長屋門をもつ本陣・問屋場と馬の塩舐め石があった。
しなの鉄道大屋駅を過ぎると街道は千曲川に最接近する。
岩下地区の一角に「明治天皇岩下御小休所」碑があった。また傍らには明治元年会津征討
のため通過した征討軍総督仁和寺宮嘉彰親王御遺跡(小休所)の碑があった。
明治天皇は即位後江戸(東京)に移られたのち早くも明治5年の九州・四国の巡幸を皮切り
に各地に行幸された。明治9年に東北・北海道、同11年に北陸・東海道、同13年に甲州・東
山道、同14年に山形・秋田・北海道、同19年に山口・広島・岡山と合計6回の巡幸をされた
(六大巡幸という)。主要道路であった五街道には明治天皇御一行が小休止をされた場所(旧
本陣や地元の庄屋など名家が多い)では記念碑を建て、建物や御膳水など保存に努めている
ところが多い。
海棠が雨に濡れて咲いていた。(「海棠の雨に濡れたる風情」とは美女の打ち萎れた姿にな
ぞらえる)
海棠も 雨にぬれたり 千曲川
太鼓淵という名勝ポイントがある。以前は太鼓岩まで吊り橋が架かっていた。
今はない。
上田城の真田昌幸は徳川秀忠の2万2千の大軍をここで破った(神川合戦)。
馬頭観世音碑が建つ。神川小学校の校門。
長野新幹線が千曲川を渡るハープ橋。河原には18匹もの鯉のぼりが舞っていた。
山笑う 千曲の里は春霞 川面きらめき鯉のぼり舞う
城郭上の石垣に塀を築き、重厚な門構えを備えた旧上田宿本陣柳沢家。
長野新幹線としなの鉄道の線路を越えると上田宿に入る。
信州大学繊維学部の正門。かつて上田蚕糸専門学校であった頃の講堂が今も使われ
ていて、有形文化財となっている。
大学の門の前の道右側には「科野大宮社」。信濃国の総社であった。
信州の松下村塾的存在であった活文禅師の私塾多門庵が科野大宮社の並びにあった
というが見つからなかった。佐久間象山もここで学んだという。
上田市内に海野町という町がある。真田氏は本家海野氏を優遇し城下に海野郷の人を招
き町を作った。
その海野町の一角に旧本陣(現在は衣料品店)、高市神社などがある。
昼食時にお店がなく、「信州ではそばを食べなくちゃ」という相棒の希望もあって、やっと海野
町の先に「刀屋」という蕎麦屋を見つけた。人気の店らしく大繁盛で滑り込みセーフで、後から
来た人たちは並んで待っていた。蕎麦は美味しく、中盛りを頼んだら東京で大盛り相当の量だ
った。
上田城は二人ともかつて見学したことがあるので、割愛し、本町二丁目信号で打ち止め。
折角の機会なので、上田の北「戸倉・上山田温泉」に泊まることにして、しなの鉄道で戸倉へ。
宿泊した「元湯上山田ホテル」は本格的な硫黄泉で、大浴場・貸切露天風呂・一般露天風呂
など歴訪し温泉を堪能した。
ただ戸倉・上山田温泉自体は往時の華やかさはない。
☆本日の歩行距離は19.3キロ
旅枕 千曲の瀬音 春の風
(以上この項終わり)