読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

北国街道を歩く(4)

2013年05月06日 | 里歩き

上田宿から坂木宿
  この日は電車でまた上田に戻る。
  昨日の終点「本町二丁目」信号から本町三丁目信号まで歩いて左折、柳町に向かう。
  途中、池波正太郎の真田太平記館があった。
  柳町には土蔵造り、卯達の上がった家並みなどが続き、街道らしさが演出されている。

         

  柳町の突き当たりで左折し紺屋町、西脇、常磐城とほぼ1キロ、まっすぐに進む。
  途中に廃屋と化した旧い建物があった。もうこのような家を建て替える気力がなく
 なったのだろう。痛ましいかぎり。

           
   
      

  高橋という橋で上田城の外堀矢出沢川を渡り生塚(うぶつか)信号に出る。橋のたもと
 の丸山家は明治になって売りに出た上田城を買い取り石垣の一部を移し積み替えたという。
 映画「たそがれ清兵衛」の決闘シーンに登場したとか。
  「せん加うし道」という道標があった。善光寺道(北国街道は善光寺道とも言った)のこ
 とだろう。

         

   

   18号国道を渡ると「正福寺」。寛保2年(1742)千曲川の氾濫で諏訪部の河原に流れ
  着いた骸2800余体を葬った「千人塚」がある。
   秋和の里を進むと新幹線をくぐる手前に一里塚公園があった。

         

          

   虚空蔵山は山桜などが咲いて実にのどかである。
   この辺りの街道みちは狭い。   

        

 坂木宿から戸倉宿へ 

   この辺り千曲川を扼する山鼻があり岩鼻の嶮という。
   国道の歩道が狭く危険。坂城町はバラが盛んなところで国道沿いに1キロも何十
  種類ものバラが植えられていた。
   この辺りは塩尻という。日本海側の「高田塩」と太平洋側の「倉賀野塩」の出
  会いと終点が尻となる。
   坂木宿との間には鼠宿という間の宿があった。「ねずみ」という信号がある。
   一里塚橋を渡ると鼠宿の由来を述べた説明板があった。
   ほどなく善光寺常夜燈があった。

         

         

   十王堂の裏手に」坂木の武将村上義清の供養塔。武田信玄の進攻を上田原の戦、
  砥石崩れの戦と二度撃退した。
   現代的な火の見櫓。
   坂木駅は黒々と落ち着いたたたずまいである。
   本陣跡は表門が残る。坂田家など旧家が並ぶ。

         

         

         

   曲手道を左に行くと善光寺常夜燈があった。
   しなの鉄道の線路を越えて、千曲川沿いの国道18号をひたすら進む。   

        

  戸倉宿には上戸倉と下戸倉の二宿があって交代に本陣・問屋場の役目を果たして
 いたとか。
  上戸倉の玉井家本陣跡は草原だった。下戸倉本陣跡は酒屋でもあったらしい。   

  今日乗った戸倉駅を横目に、その先「千曲駅」を目指して一目散。なぜなら上田から
 新幹線に乗るためには千曲駅15:37の電車に乗らなければならなかったから。
 (ところがこの電車が10分近く遅れて駈けこみで辛うじて間にあった。おかげでビールも
  名物おやきも買いそびれた)

     

  本日の歩行距離はおよそ19キロ。

  (以上この項終わり)

   
   
 

コメント
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