JCP市原時夫です

千葉県房総の睦沢町から、政治・経済・歴史・オペラ・うたごえを考えるgabuku@m12.alpha-net.ne.jp

「野村萬斎」問題意識を生じさせてくれた本

2013年01月28日 | Weblog

 書店で見つけて読みました。野村萬斎さんを知ったのは、加藤周一さんのどの本でしたか忘れましたが、萬斎さんの祖父の芸を評価した記述を萬斎氏が読んだということでした。
 狂言を全く知らないのですが、萬斎さんに興味を持ちました。
この本で「『世界の名優を五人あげるとしたらその中に野村万蔵が入る』というような文章をかかれえていて、その一文が私の『狂言への道』決定しました。」と書かれています。
 テレビなどの映像を見ると、萬斎さんはいつも、演じている自分とその負っているいるものを別の所から見ている自分がいる人のように思います。
 この本は、狂言芸術論という部分が全体を占めています。
一つには、狂言は型だということ。このことはフランスのパントマイムのマルセル・マルソーの授業を見て同じものを感じたと書いています・
 もう一つは、書物には残さず「口伝」という稽古によってのみの相伝。と秘密と免許という方法論。萬斎さんは究極の「一子相伝」について、あまりに秘密にしすぎて「「口伝」の部分が不明になってしまった例も紹介しています。
 ただ、狂言は「型」だという部分については、明快・不動の姿勢を示していますが、その他の部分は、この本ではあいまいにしている感がします。
 萬斎さんの経歴からみれば、歴史的にも理論的にも確信を持っているのではないかとも思われるのですが。
 能と狂言の「能楽論」については、加藤周一さんの「世阿弥の戦術または能楽論」の中で、当時の世阿弥の立場は、戦場のごとく「兵法」と似ており、そこから「秘伝」という仕組みが必要であったと述べています。加藤周一氏は、「私は世阿弥を何度か読み、彼の言うところをはっきり理解できると思ったときに、この論文を書いた。」と書いています。
 私が、はじめて、加藤周一さんの「日本文学史序説」を読んだとき、その緻密性と明確さは、日本共産党の大会決定や中央委員会総会の文章とにていると思ったのですが、「能楽論」でも同じようです。
 萬斎さんのこの本も芸術論という面から見れば、そうした、明確さがほしかった気がします。