消防士 兼 旅人の日記

消防署での出来事、ダラダラした日常生活を綴ります。

骨髄バンク、ドナー体験記8 その後

2013-05-07 23:03:28 | 骨髄バンク
久しぶりに、このテーマで記事を書きます。

とは言いましても、最後に書いたのが6年ぐらい前の話。久しぶりとは言いませんかね、ただの怠慢か(苦笑)

(一応)前回の記事はこちらになります。→体験記7


既にお気づきの方がいらっしゃるかもしれませんが、私は骨髄バンクにドナー登録をしています。

その骨髄バンクを介し、ドナーとして骨髄を提供させて頂いた経験があります。その当時の様子は過去の記事をご覧いただければ幸いです。
骨髄バンクと言うカテゴリーを参照


一通り書いたので完結するつもりではいましたが、今でも当時の記事が検索に引っかかるらしく、そこからたどってコメントを残して下さる方々がいらっしゃいました。

それに最近気がついたことなのですが、このブログの人気記事なるものが表示されるようになりました。最新で書いた記事が上位に来ることが多いのですが、ランキングの半分がドナー体験のことを書いた記事で占めることも。

随分前に書いた記事でもこうやって読んでもらっている。そのことにも感謝しつつ、頂いたコメントで触れてはいたけど改めて書いてみようかと。それに、最近職場でも当時の話をする機会がちょっとあったのも、改めて文章にして残してみようと思ったきっかけ。

さすがに曖昧になってしまった部分もあるけれど、今でもはっきり覚えている部分も。今だから書けることと、ちょっとした私の願いも込めて…と言うことで筆を取ります。



退院してちょうど1週間が経った頃でしたかね、職場に復帰しました。

当時はまだ消防署に入って日が浅い消防隊員でした。やったことはともかく、自分の都合で1週間以上の休みをもらっていたためお詫びの様なお礼の様な感じで無事に戻ってきたことを上司に報告。

骨髄採取の際に針を刺した腰の痛みはそれほど気にはならなかった覚えがありますが、負荷をかけるとちょっと…と言う感じ。血液を作る基となる骨髄液を抜いていますので、しばらくは貧血の様な症状が出るとの話。署の事務所で過ごしている分には大丈夫でしょうけど、災害出場がある仕事柄、ちょっと辛いかもよ?との医師談。

大人しく過ごせれば良いなぁ…と思っていましたが、そう言うこと言ってるとダメなもんで…。救急隊支援のために出場し、傷病者を担架で持ちあげ、ストレッチャーまで搬送するだけでも息切れするような感じがあったのを今でも覚えています。

それでも次当直では気にならないぐらい回復。通常の生活するには支障はなかったし、術後の健診時にはもうなんてこと無いぐらいでした。でも、腰に針の痕はしばらく残っていたかな。

人目につくような場所じゃなかったし、私はその傷跡が勲章に思えるぐらいでした。今ではもうキレイさっぱり無くなってしまいましたけど。


術後健診が終わってアンケートに答えたのと、今後のドナー登録の取扱いについての説明書きがありました。

ドナーとして提供した場合、健康管理など様々な事情により1年間は強制的な登録保留期間となります。つまり、この1年間の間は、例え私と患者さんのHLAの型がマッチしたとしても、ドナー候補として選ばれることはない。

1年間の登録保留期間が終わるころに再び骨髄バンク財団から手紙が郵送され、ドナー登録を継続する意志があるかどうかの確認の手紙が来るとのことでした。


術後健診からしばらく経ったある日のこと、郵便局から配達記録だったか書き留めだったでしょうか。私宛に郵便が届いてると郵便配達の方がわざわざピンポン押して届けて下さいました。

中身は国からの感謝状。厚生労働大臣名でドナーとして骨髄を提供したことへの感謝と言うことで頂きました。けど、特段それを飾ったりすることはなく。

収納する筒も一緒に届いたので、それに入れて保管。でもね、この間ちょっと部屋の荷物を整理してて思ったんですが、その筒が見つかりません(苦笑)

たぶん私の記憶が確かならば、(一応)こんなのもらったよって実家に見せに帰って、そのまま置いてきた気も…?記憶が確かならば、実家にあるでしょう。自宅にはありませんでしたから(笑)

国から感謝されることもそうそうありませんので、それはそれでありがたく頂くことにしました。でも、すごい嬉しいとか、そんな感情は湧かなかったかな。厚生労働大臣名で発出された感謝状でしたが、大臣本人(当時の)は私のことなんぞ知らないでしょうし、事務的にもらった感は否めませんでしたので。


そこからまたしばらく経ったある日、またまた配達記録だか書き留めだったかで郵便屋さんが来まして、骨髄バンク財団から私宛への郵便が…とのこと。

まだ1年間の登録保留期間中であったのでドナー選定じゃないな…とは思っていたのですが、中身が全く予想できず。封を開けてみれば、私が骨髄を提供した相手方からお手紙を頂いたので送付させて頂きます、と。

ドナーと患者、双方のプライバシーの観点から手紙の封はされず、財団関係者により拝読させて頂きましたとの一文が。点検じゃないけど、お互い個人が特定できるようなことを書いていないかを確認してからドナーあるいは患者さんに送られる仕組みになっています。

私も早速、拝読させて頂きました。

お手紙の内容を全てご紹介はできませんが、要約すると、私達の子どものために骨髄を提供して頂きありがとうございました、と。

私が提供した骨髄が無事にお子さんの身体の中で働き、無事に退院することができたとのことでした。

骨髄バンクの存在自体は知っていたけれど、ドナー登録を考えたことはなかった。でも、今回お子様が発病し移植に至るまでに色々なことを考えて学び、今後はドナー登録について一人でも多くの方に知ってもらい、登録してもらえるように活動していく決意が綴られていました。

もう少しで元気に走り回る姿をまた見られる。元気な子どもなら当たり前の光景が、また見られる喜びも綴られていました。


そして、そのお子様本人からもお手紙が。

移植して元気になって、退院して。学校にも通えるようになりました、ありがとうございました、と。

ドナー決定の最終同意後にコーディネーターの方から居住地方と年代はお聞きしてましたし、ご両親から頂いた手紙にもありましたが、お子様は(当時)10代とのこと。

10代と言っても、下は小学生から上は大学や専門学生、あるいは既に社会人として働き始めていらっしゃる方もいるでしょう。でも、お子様ご本人から頂いたお手紙の文面や字を見る限り、おそらく10代初め、小学生なのかな?との印象を受けた。

骨髄提供時私はまだ独身だったけど、結婚して父親になった今、このご両親の苦悩は痛いほどよく分かる。最終同意の面談の時に父が言ってた言葉も、私が父親になった今、その気持ちがよく分かるようになった。

その子やご両親は今どうしているかな。あのまま元気に過ごせているだろうか。


ドナーと患者間での手紙のやり取りは提供後1年間で2通ずつ、やり取りができます。でも、私からはお手紙を出さなかった。いや、出せなかった。

ごくごく普通の男の骨髄が、少しでも誰かのお役に立てるのなら…と言う思いもあって骨髄バンクに登録をした。そして同じHLAの型を持つ見ず知らずの人がいることに不思議な縁を感じた。でも、その人は病気で苦しんでおり、手を差し伸べられるのはHLAの型が合う人でないとならなかった。

ドナーの最終候補者として選ばれた時、これは私にしかできないことなんだと思った。それならば、私がその人を助ける手助けをしたかった。提供したことを恩着せがましくしたくはなかったし、私自身も今回のことでたくさんのことを学ばせて頂いたし、貴重な経験をさせてもらった。何よりも無事に生着して元気になり退院したと言うことが本当に嬉しかった。

そんな私の思いをお返事として書きたかったんですが、上手く文章にできなかった。そうこうしているうちに1年が過ぎ、お手紙を出せなくなってしまったのです。

せめて、こちらこそ…の気持ちでも伝えれば良かった。今でも後悔の念が残っています。


やがて時が過ぎて、1年間の登録保留期間も終わった。財団から今後のドナー登録についての意思確認の手紙も届いた。私は迷わず登録継続に○をつけて返送。再び、ドナーとして選定されるのを待つ身となりました。


まだ次男の妊娠が分かるちょっと前ぐらいだったかな、再び私の元にドナー候補に選ばれたと言う手紙が届きました。

断る理由なんぞありませんでしたので、再び提供の意思がある旨を書いて返送。確認検査の日程を決めて、確認検査のため病院へ。

2度目のお話でしたので、ある程度の要領は得ていた。そのせいか、説明もほどほどに確認検査を行った覚えがあります。

しかし、2度目は最終候補者として選ばれるまでには至らず、途中でコーディネート終了となりました。終了の理由については教えてもらうことはありません。

詳しい検査の結果、私とのHLAが合わなかったのか、何か至らぬ点があったのか。願わくば、私よりももっと条件の良い他のドナー候補者がいて、良い方向に進んでいれば…と願わずにはいられない。

2度目は途中で終わりましたが、今は3度目の適合通知が来るのを待っています。


骨髄バンクを通して骨髄を提供できるのは2回まで。1度提供した私は今後の財団の方針が変わらない限り、次が最後となります。55歳の誕生日を迎えるまでにもう1度提供する機会があったなら、その時はちゃんとお手紙を書こう、お返事をしよう。そう心に決めています。

そのためには、いつ声がかかっても良いように健康体でいること。仕事柄不摂生な生活リズムはどうしても変えられないけれど、健康体でいられるように維持していかなきゃと思っています。


今でも時間がある時は献血に行っています。献血に行ったり、ふとしたことで骨髄バンクだったり、白血病と言う単語に触れた時、私が提供した相手は今頃どうしているだろうかって気になっています。

その度に、一目でいいから会ってみたいと言う気持ちも湧く。面と向かって会うと向こうは気を遣うだろうし、私も恩着せがましくしたくはない。

だから、遠巻きに見るだけで良いから、言葉は交わさなくても良いから、元気に過ごしているところを見れたら良いなって思いはあります。

叶わぬ夢だとは重々承知してはいるんですけどね。


長々書いてしまいましたが、最後までお付き合いくださいましてありがとうございました。

なかなかできない貴重な体験をさせて頂いた。この経験を通して、良いこと悪いことも、実際に提供してみて思ったこと、感じたことも全部含めて『知って欲しい』との思いからこのシリーズを書きました。

私の怠慢により、数年かかっての完結となりましたことをお詫びして…(苦笑)


ブログでも書いたし、私の周りの方々にもことあるごとにお話をさせて頂きました。

私の話を聞いてくれ、それまで面識のなかった署の先輩から直々にお電話を頂き、『俺も登録してみることにしたよ!』と言われたことも正直、嬉しかった。現にその先輩もやがてドナーとして選定されて、骨髄提供まで至ったとのことでした。

当時の署長や課長、隊長や職場の同僚、上司の理解があったからこそこの話ができたことだし、両親の同意もあったからこそ。私一人の気持ちだけではできなかった。私の提供したいと言う意志を汲んでくれた全ての方々に感謝。もちろん、コーディネーターさんをはじめ、ドクター、看護師さんなど病院のスタッフの方々にも。

もし、2度目の提供することがあったなら、1度目にはできなかったことをやって。後悔のないようにしたいと思います。



最後に、私と同じ骨髄を持つあなたへ。


その後の体調はいかがでしょうか。元気で過ごしておられるでしょうか。

辛く苦しい治療を乗り越えてたあなたなら、この先どんな境遇でも乗り越えられると信じています。

同じHLAの型を持つ人がいる。私と同じ血が流れている人がいると言う不思議な縁を感じながら、私もこれからの日々を過ごしていきます。

あなたのおかげで、私の人生観が変わった。生きると言う意味を知ったような気がします。この言葉が適切かどうかは分からないけど、ありがとう。

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52 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
人助け (いつき)
2013-05-08 08:04:05
そういう人助けも、もっと広まるといいなと思います。
むさしさんは素晴らしいですね。
アメリカではドナー登録が結構当たり前になってるようですが、日本はまだまだですもんね。
私は血が薄いのか、献血しただけでしばらくはフラフラでしたが(苦笑)
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私が… (白熊)
2013-05-08 20:58:42
長いブログ読んだ後に私にも適合する人がいるような思いがしてきました。それから連休に岩手と宮城に行って来ました。見て感じてきた事これからいかす為にも私にもドナー登録出来るか一歩踏み出したいと思います。ほんとにムサシさんありがとうございます。
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はじめまして〓 (良浩)
2013-05-09 21:37:51
消防士目指しています質問なんですが救急隊が傷病者を搬送するときあまり速度を出さないのはなぜですか〓
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Unknown (smilema)
2013-05-13 09:28:24
ネットの【骨髄バンク】を検索していたときにむさしさんのブログを見つけ拝見させていただきました。私の二女も昨年骨髄移植を受けました。その時のことを思い出し涙涙。娘の場合はバンクではなく、双子の三女からの提供での移植でした。娘の移植が決まったときに私たち夫婦も骨髄バンクに登録しました。私たちの骨髄液でどなたが健康になられるのであれば、こんな嬉しいことはありません。娘の闘病を経験して改めてそう思います。娘はこの春無事ランドセルを背負うことができ、移植をしたのがあの闘病生活が夢だったんじゃないか…と思うほど元気に走り回っております(^-^)
ブログを拝見させていただき、私達の骨髄移植のことを思い出しコメントさせていただいちゃいました。
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公私共に。 (あほすき)
2013-05-13 11:11:38
おはようございます。
長い間このブログを拝見しているのに、骨髄バンクの話題をこの記事で初めて知り、過去の体験記を拝読しました。
読んでいくうちに涙が溢れてきました。
特に最後の文章は、とても印象に残り、自分の人生観も変えてくれました。
自分はムサシさんに感謝の言葉を伝えたい。
お恥ずかしい話、社会貢献は献血しか経験無いのですが、
いつか必ず骨髄バンクに登録したいと思います。
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いつきさんへ (ムサシ)
2013-05-13 13:52:31
お返事が遅くなってしまい、すみません。

骨髄バンクって言葉は聞いたことある、何となく知っていると言う方は結構いらっしゃるとは思います。でも実際にはどんな感じ?どうやって骨髄を採取するの?そこに至るまでにどんなことをするの?とはなかなか知る由もないのかなって思います。

だからこそ、そんな体験をした私が体験記を記すことにより、少しでも知ってもらえれば…との思いで書きました。

完結まで時間がかかったのは見逃して下さい(苦笑)


3度目の話が来たら、迷わず提供の意志は示すつもりです。嫁にも一応の承諾は得ています。それまでは大病せず健康的に過ごすこと。これが今できることかなって思っています
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白熊さんへ (ムサシ)
2013-05-13 14:04:23
東北への旅、お疲れ様でした。

私も岩手・大船渡、宮城・気仙沼大島へボランティアとしてお手伝いをさせて頂いたことがありますが、その後はどうなったかなと言うのは気にかかっています。いつかは家族を連れて、再び訪れたいと言う気持ちも持ち続けています。


登録自体はそれほど難しい手続きはありませんでした。説明をよく聞いて、採血して終わり。献血ついでにできるような感じのものでした。

最初の提供時とは私も環境が変わっています。でも、1度提供している私は次が最後となります。色んな意味で後悔がないように…と思っています。
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良浩さんへ (ムサシ)
2013-05-13 14:21:55
初めまして、コメントありがとうございます。

ご質問の回答ですが、救急車がスピードを出さないのは傷病者に苦痛を与えないためです。たとえば、骨折していれば動かないように固定をして搬送をします。

でも、車が揺れることにより患部が動き、痛みを与えてしまったら意味がない。めまいがしてただでさえ気持ち悪くて吐いてしまうのに、揺らすような運転をして苦しみを悪化させたら意味がないのです。

応急手当・処置の目的に、それ以上の苦痛を与えないと言う目的もあります。

中には多少の揺れとかを気にせず、とにかく急ごうって事案もあります。でも、原則は患者室に揺れは衝撃を与えないような運転を心掛けるのが常です。

急発進、急ブレーキ、急ハンドル厳禁はもちろんのこと、路面状況に応じてあえて遠回りすることもあります。(工事個所や路面が悪いところを避ける)

重症患者の場合は後ろに2人乗り、機関員1人で安全確認しながら運転して、スイッチやマイクで走行中の車に注意を促したり。

消防車などの運転と比べて非常に神経をつかいますし、出場の頻度も多い。


自分で言うのもなんですが、救急隊の機関員ってホントに大変なんですよ(苦笑)
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smilemaさんへ (ムサシ)
2013-05-13 14:45:22
コメントを頂きまして、ありがとうございます。

お子様の辛く苦しい闘病生活に際し、さぞ心を痛められたかと思います。ドナーとして提供する三女様のご心配もあったかと思います。

無事にランドセルを背負って、また元気に走り回ることができるようになったことを私も嬉しく思います(^^)


このお話は私一人ではできなかったこと。移植に際したくさんの方々にご理解ご協力を得て、また、たくさん励ましの言葉も頂いた。それらの経験も踏まえて、再び適合通知が来たら提供に向けて進んでいくつもりでいますし、機会があればお話をしていきたい。少しでも、救える命が増えることを祈って…。


たまたま職業柄、『命』に向き合うことが多々あります。その度に思うのは、何事も生きてこそ。命あってこそ。当たり前のことが当たり前にあること自体、奇跡なのかもしれません。

そんな当たり前に感謝しつつ、今を一生懸命生きようと思うことにしています。
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あほすきさんへ (ムサシ)
2013-05-13 15:06:06
記事の冒頭でも触れたとおり、最後に書いたのは随分昔。今でも検索に引っかかるらしく、時々はドナーの件でコメントを頂くことがありました。

最近また私の周りでそんな話題が上がることがあって、再び書いて見ようと思ったのです。でも実は、この記事完成させるまでに2週間ほどかかっちゃいました(苦笑)

なかなか文章書く才に恵まれなくてですね、書いては消して書いては消しての繰り返しで…


最後の文は、提供した患者さんに伝えたかったもの。お手紙と言う形で残すことができなかったため、せめてもの気持ちでブログに書いてみたのです。

私の造血管細胞をそのまま取り出し移植したため、理屈では私と全く同じ血液が流れていると思います。今は2人の子どもがいますが、自身の子よりも私に近い血が流れていると思います。

同じ白血球の型(HLA)が合うからこそ繋がった縁。そう考えるとやっぱり不思議な感じがしています。


提供した相手方とは会うことはできない。分かっちゃいるけど、それでも遠巻きにで良いから一目見て、元気に過ごしているところが見れたら良いなとは今でも思っています。
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