◇「祈りの作法 (1) はじめに」
◇「祈りの作法 (2a) 基本の基本」
◇「祈りの作法 (2b) 基本の基本<具体例・詳細>」
◇「祈りの作法 (3) 主の祈り」
******************
祈りの基本・・・と言うと、
もしかしたら、ある人は「主の祈り(Lord's Prayer)」を、挙げられるかもしれません。
「天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国をきたらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄(さか)えとは、
限りなく なんじのものなればなり。
アーメン」
(新約聖書・マタイの福音書6:9-13)
Our Father which art in heaven,
Hallowed be thy name.
Thy kingdom come.
Thy will be done in earth,
as it is in heaven.
Give us this day our daily bread.
And forgive us our debts,
as we forgive our debtors.
And lead us not from evil:
For thine is the kingdom, and the power,
and the glory, for ever.
Amen.
昔の訳の「文語訳」も、欽定訳(きんていやく、KJV)も美しい。
この「主の祈り」と呼ばれる祈りの中にも、さまざま大事なことが含まれています。
たとえば、「誰に向かって、祈るのか」とか、「まず、神様を賛美したり、感謝すること」とか(まだまだ沢山エッセンスがぎっしり)。
ただ、意味もわからず念仏をとなえるように、これを言えばいいというものでは、なさそうです。
というのも、ここの話の直前に、イエス様ご自身が、こうおっしゃっていたから。
「祈るとき、異邦人(いほうじん;ほかの国々の人)のように同じことばを、
ただくり返してはいけません。」
(マタイの福音書 6:7)
というわけで、これを暗記して、これを唱えよ、というわけではなさそうです。
もちろん、そうしている(=定型祈祷のみの)教会は多いかもしれませんし、もし覚えているならそれはそれで素晴らしいことです。
ただ、念仏もどき(=ここでは、「意味もわからずただ唱えていればOK」の意)にしては、もったいないカモ。
******************
また、どうぞ、「ことば」と「思い」が乖離(かいり)しないように、お気を付け下さい。
どんなに美辞麗句を用いることができても、心がそう思っていないことは決して祈らないでください。
神様は、その人の心もすべて、ご覧になっていますから(サムエル記第一 16:7,マタイ10:30)。
(「思っていないことを祈る」というのは、「うそバレバレの祈り/偽りの祈り」、
言い換えると「すべてお見通しの神様に対して、偽りを申し上げる」ことにほかならない。) (続く)
◇「祈りの作法 (2a) 基本の基本」
◇「祈りの作法 (2b) 基本の基本<具体例・詳細>」
◇「祈りの作法 (3) 主の祈り」
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祈りの基本・・・と言うと、
もしかしたら、ある人は「主の祈り(Lord's Prayer)」を、挙げられるかもしれません。
「天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名をあがめさせたまえ。
御国をきたらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国とちからと栄(さか)えとは、
限りなく なんじのものなればなり。
アーメン」
(新約聖書・マタイの福音書6:9-13)
Our Father which art in heaven,
Hallowed be thy name.
Thy kingdom come.
Thy will be done in earth,
as it is in heaven.
Give us this day our daily bread.
And forgive us our debts,
as we forgive our debtors.
And lead us not from evil:
For thine is the kingdom, and the power,
and the glory, for ever.
Amen.
昔の訳の「文語訳」も、欽定訳(きんていやく、KJV)も美しい。
この「主の祈り」と呼ばれる祈りの中にも、さまざま大事なことが含まれています。
たとえば、「誰に向かって、祈るのか」とか、「まず、神様を賛美したり、感謝すること」とか(まだまだ沢山エッセンスがぎっしり)。
ただ、意味もわからず念仏をとなえるように、これを言えばいいというものでは、なさそうです。
というのも、ここの話の直前に、イエス様ご自身が、こうおっしゃっていたから。
「祈るとき、異邦人(いほうじん;ほかの国々の人)のように同じことばを、
ただくり返してはいけません。」
(マタイの福音書 6:7)
というわけで、これを暗記して、これを唱えよ、というわけではなさそうです。
もちろん、そうしている(=定型祈祷のみの)教会は多いかもしれませんし、もし覚えているならそれはそれで素晴らしいことです。
ただ、念仏もどき(=ここでは、「意味もわからずただ唱えていればOK」の意)にしては、もったいないカモ。
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また、どうぞ、「ことば」と「思い」が乖離(かいり)しないように、お気を付け下さい。
どんなに美辞麗句を用いることができても、心がそう思っていないことは決して祈らないでください。
神様は、その人の心もすべて、ご覧になっていますから(サムエル記第一 16:7,マタイ10:30)。
(「思っていないことを祈る」というのは、「うそバレバレの祈り/偽りの祈り」、
言い換えると「すべてお見通しの神様に対して、偽りを申し上げる」ことにほかならない。) (続く)