塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

ゾ-ンプレスとサッキ、そしてロベルト・バッジョ

2009-09-28 19:12:00 | 日記
 サッキは1994年のワールドカップ米国大会に向けて、イタリア代表の指揮官に指名されます。前任者のビチーニが、92年の欧州選手権の予選を突破できなかったのです。
 それは同時にサッキの手腕と、ゾーンプレスが改めて認められた瞬間でもありました。
 事実サッキはイタリア代表の基本戦術をゾーンプレスに設定します。予選では敵地でスイスに0-1で敗れてしまうものの、米国へのキップはしっかり手にしました。
 またディノ・バッジョ、ジュゼッペ・シニョーリなど、新戦力の発見もサッキにとっては追い風でした。なるはずでした。
 しかしアメリカの大地は灼熱の太陽のもと彼らから体力と集中力を、容赦なく奪っていきます。おまけに初戦のアイルランド戦で、守備の要、バレージが負傷退場してしまい、いきなり大黒柱を失ってしまいます。
 続く2戦目のノルウエー戦では、GKのパリュウカがレットカードで退場を宣告されてしまう非常事態。ここでバッジョのファンなら、一度は聞いた事があるであろう言葉が生まれます。
 「こいつは気が狂っている。」
 サッキがGK交代の為に、ベンチにに退くように命じた選手は、自他ともに認めるエースのバッジョだったからです。
 実はサッキはミラン時代、聖マルコと呼ばれファンから絶大な人気を得た、オランダ代表のファン・バステンとも諍いを起こしています。サッキはゾーンプレスを遂行する為、選手に一切の妥協を許しませんでした。守備陣がラインコントロールを学ぶ際は、体にロープをつけて、互いの距離感を保っていたそうです。
 つまりゾーンプレスの機能美とミランの栄光は、選手の意見や創造性を犠牲にした上で勝ち取ったものでした。その過酷なストレスに選手は悲鳴をあげ、特にファン・バステンは、オーナーのベルルスコーニに、こう詰め寄ったと聞いています。
 「俺をとるのか、サッキをとるのかはっきりしろ。」
 ご存知のように、イタリアは決勝まで進出するものの、PK戦のすえブラジルに敗れます。PKを外したバッジョの姿は、ハイライトで幾度となく報道されたので、見た方も多いでしょう。
 それ以上にあの交代の瞬間から、バッジョとサッキの間には、生涯歩み寄ることのできない傷が生まれます。その傷はあれから15年の歳月が流れた今も、癒えてはいないようです。
 政治の世界もそうですが、政策を訴える際、長所と短所を簡単な言葉で良いので、僕たちに伝えたら良いのに。と思う事がありますが、サッキはそこまで気がまわらなかったのでしょう。
 「アメリカは予想以上に熱い。ゾーンプレスは君たちの体力を消耗する。戦術が機能しているうちはいい。ただ交代枠を使う権利は私にある。従って交代のためベンチに下がる選手は素直に従ってもらいたい。」
 バッジョは自伝「天の扉」の中で、サッキはバッジョに対して、「アルゼンチンのマラドーナのような存在」と声をかけていたそうです。ですからノルウエー戦の交代劇は、サッキの言い分は矛盾している、裏切られたという心情が心に芽生え、例の言葉を口走ったのではないでしょうか。
 実はバッジョはこの時故障を抱えており、サッキは決勝までの道のりを逆算し、意図的に彼をさげたのではないかと、僕は考えているのですが。
 ただ僕が考えた、上の「」の中のような言葉を、あらかじめ選手にかけておいたならば、ふたりの関係がここまでこじれるような事は無かったのではないかと思うのです。バッジョの交代の際のわだかまりも、少しは抑えられたような気がしてなりません。
 何故ならいつの時代も、国旗をつけ国家の名誉のために戦う男たちな、何より自尊心を尊い物と考えています。ふたりはこの自尊心をひどく互いに傷つけられたと捉えたのでしょう。
 ちなみのこのワールドカップ、ファン・バステンの母国、オランダも出場していましたが、ベスト8でブラジルに破れています。彼は右足首の故障のため、代表チームにエントリーできませんでした。
 果たして彼はオランダとイタリアの敗北と、夢絶たれたサッキをどのように見つめていたのでしょうか。
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