お正月に子どもが貸してくれた「寄生獣」にハマって
現在8巻まで読破。漫画原作の実写版の映画は
いつも今いちなことが多いので、この手のものは原作を読みます。
どこからともなくやってきた、人間の脳を食べて体を乗っ取る謎の寄生生物。
これに脳を乗っ取られると他の人間を食べるようになるのですが、
高校生のシンイチに侵入したそれは、脳を乗っ取るのに失敗して右手に寄生。
ミギーと名づけられてシンイチと共存し、人間を襲う他の寄生生物と戦うように
なっていくと、まあそんな感じのお話です。
最初のほうを読んで「なんか依存症と似てる」と思った私。
人間の脳を乗っ取り体を支配して、他の人間に危害を加えるとこが。
なんでもかんでも依存症にしてしまう私の思考回路にもやや問題ありですが
あながち大きくはずれているとも思えません。
いわゆるスプラッターな、グロいシーンは結構あります。
映画のほうも年齢制限はかけられているようです。
こういいのがいいのか、悪いのかという点については
私はあまり白か黒かみたいな考え方はしません。
容認できるかできないか、好きか嫌いかです。
ただしスプラッターだけを目的にした映画や
「13日の金曜日」に代表される「殺人」を目玉にした
「お化け屋敷」的なホラー映画はあまり観ません。
ストーリーの流れの中で、必然性があれば悪いとは思いません。
この考えは、子育てをしていた時期から変わっておらず
子どもたちが小学校の高学年くらいからは、残酷だからだめとか
性的な場面があるからだめというような制限はしませんでした。
現実の社会の中には、良いものも悪いものも
美しいものも、どうしようもなく醜悪なものもあるのだから
情報としてたくさんのものを取り込んで、それが良いか悪いかは
自分の脳の中でえり分けていく力を身につけたほうがよいと思うからです。
「この世の果て」という野島伸司さんのドラマが放送されていたのが
ちょうど子どもたちが小学生の頃で
あのドラマの中で、かつては天才ピアニストだった三上博史さんが
覚せい剤の中毒になっていきます。
薬を求めて這い回る姿は、もはや人間ではない別の何かです。
単に良いか悪いかの問題ではなく、かつては人生をかけて愛した女性をも
苦しめ、傷つけるその姿は、どうしようもなく悲しいし惨めです。
しかし、彼は女性(鈴木保奈美)の献身的な介護で
回復を始めますが、結局ハッピーエンドにはならずとそういうドラマでした。
そういうドラマを見ても、これはいいとか悪いとかいうようなことは言いません。
私は別に道徳を教えるために映画やドラマを観ているわけではないし
どんな崇高で立派な人間も、反対にどれほど残酷で凶悪な人間も
または羊の皮をかぶった狼的な人間たちも
現実社会には存在するのだから、あるものは全てあるがままです。
けれど「悲しいね」とか「切ないよね」とか
自分の感情の部分で感じたことは言っていました。
野島さんのドラマは、性や暴力や、人間の醜悪さを誇張して描くことが多いので
結構非難もされますが、反面人間の切なさや美しさを描いている点では
独特のセンスがあってその美しい部分が、私のツボなので、平気で子どもにも見せていました。
この後に観た「未成年」や「ひとつ屋根の下」「世紀末の詩」などは
ドラマの中で流れたカーペンターズやチューリップの美しいメロディとともに
子どもたちの記憶に残っていったようです。
高校時代の子どもの本棚に、野島ドラマのノベライズ「薔薇のない花屋」を見つけて
ちょっと嬉しかったことを思い出しました。
ちなみにダンナのギャンブル依存症のことを
子どもたちに話したのは、司法書士さんに任意整理を受任していただけて
それまでの借金が減額できることが確定した時でしたが
「お母さんの話わかる?」と聞いたら
「ああ、『闇金ウシジマくん』とか『カバチタレ』とか読んだけん
大体のことは分かる」という答えが返ってきました。
小学校に上がるくらいまでは「この世界は愛と善意にあふれた素晴らしいものだ」
という小説やドラマや映画を見せるのはよいことだと思います。
けれど6才を過ぎたくらいからは、子どもは親には分からないところで
様々な現実に直面します。
自分の能力や家庭環境に対する自覚も出てきて、優越感や劣等感も芽生えます。
様々な個性を持った子どもたちが集団生活する中で、理由のない悪意にさらされることも
いじめたり、いじめられたりという簡単に解決できない葛藤に巻き込まれることも起こります。
早い子では、小学校の高学年くらいから性への興味も芽生えます。
まだまだ未成熟な脳と、手持ちの不十分な知識で
いろいろな問題に向かっていかなければなりません。
私は、そこで大切なことは「他者を傷つけない」ことと「自分を守る」ことだと
思っていました。今何かと話題になるイスラム教ではないけれど
親が子どもに何よりも守ってほしいことは
極言すれば「殺すな、盗むな、犯すな」
つまり他者の命や財産や尊厳を傷つけないということ
それだけ分かればいいやくらいに思っていました。
「他者を傷つけない」ためには、他人の悲しみを理解できる感性が必要です。
これは例えば「思いやりが大切」とか「他の人には親切にする」とかいう
具体性のない抽象的なことばで分かってもらうのは、すごく難しいのです。
子どもにこの感性を育てるのに、一番大切なのはやはり親の接し方だと思います。
「お友だちには優しくしようね」と言葉で教えても
親が子どもに対して色んな場面で優しく接してなかったら
子どもには何が「優しさ」なのかが分かりません。
親が子どもの気持ちにどれだけ寄り添ってやれるかで
子どもの他者との関わり方も大きく違ってきます。
ただ、子どもの気持ちに共感する、寄り添うことと
無条件に甘やかす、迎合することとの線引きはすごく難しいところで
ここで親自身の価値観やスキルが大きく問われます。
一方「自分を守る」ためには、人間や社会を理解できるたくさんの知識と情報が必要です。
「なぜ相手はこんなことを言うのか」「世の中にはなぜこんなことが起きるのか」と
人間や社会を分析できる力や、それに対応できる能力が必要になります。
学校の勉強だけでは、身につけることができないものが山ほどあります。
本や映画やドラマを観る中で身につけることができるのが客観性と共感力です。
フィクションではあっても、そこには「自分と同じだ」と感じることができる喜びや悩み
悲しみや苦しみや怒りの感情の具体的な姿があります。
それに共感すると同時に「それではどうしたらいいのか」という解決の方法を
シュミレーションすることもできます。
だから良いことも悪いことも、知っていて無駄になることはほとんどないと私は思います。
私と子どもたちの共通の話題は、昔も今も
最近読んだ本や映画、音楽の話です。
病気の話は特に進展がない時などはあっさりしたものです。
でもお互い微妙に趣味が違うと分かっているから、無理に勧めたりはしません。
「これが面白かった」という、主に情報交換です。
子どもたちは特にお勧めのものは勝手に置いていきます。
けれど私が「猿の惑星」や伊藤計劃氏について熱く語っても
「また始まった」という感じで半笑いです。
小さい頃に見た「フランケンシュタイン」は、まだトラウマになっているようで
「生首が出てきて怖かった」と恨まれていたりもします。
でもそれでいいのだと思っています。親の好みに同化する必要はありません。
子どもが最近仕事がらみで「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」というSFの
話題を目にする機会が多いのだそうです。
「どっかで聞いたと思ったら、お母さんが昔面白いって言ったやつや」
もし私がいなくなって何年も経った後でも
そうして私が話したことの断片が、子どもたちの心によみがえってくれることがあるなら
私が手渡したかったことの何割かは伝わったのではないかと思えるのです。
現在8巻まで読破。漫画原作の実写版の映画は
いつも今いちなことが多いので、この手のものは原作を読みます。
どこからともなくやってきた、人間の脳を食べて体を乗っ取る謎の寄生生物。
これに脳を乗っ取られると他の人間を食べるようになるのですが、
高校生のシンイチに侵入したそれは、脳を乗っ取るのに失敗して右手に寄生。
ミギーと名づけられてシンイチと共存し、人間を襲う他の寄生生物と戦うように
なっていくと、まあそんな感じのお話です。
最初のほうを読んで「なんか依存症と似てる」と思った私。
人間の脳を乗っ取り体を支配して、他の人間に危害を加えるとこが。
なんでもかんでも依存症にしてしまう私の思考回路にもやや問題ありですが
あながち大きくはずれているとも思えません。
いわゆるスプラッターな、グロいシーンは結構あります。
映画のほうも年齢制限はかけられているようです。
こういいのがいいのか、悪いのかという点については
私はあまり白か黒かみたいな考え方はしません。
容認できるかできないか、好きか嫌いかです。
ただしスプラッターだけを目的にした映画や
「13日の金曜日」に代表される「殺人」を目玉にした
「お化け屋敷」的なホラー映画はあまり観ません。
ストーリーの流れの中で、必然性があれば悪いとは思いません。
この考えは、子育てをしていた時期から変わっておらず
子どもたちが小学校の高学年くらいからは、残酷だからだめとか
性的な場面があるからだめというような制限はしませんでした。
現実の社会の中には、良いものも悪いものも
美しいものも、どうしようもなく醜悪なものもあるのだから
情報としてたくさんのものを取り込んで、それが良いか悪いかは
自分の脳の中でえり分けていく力を身につけたほうがよいと思うからです。
「この世の果て」という野島伸司さんのドラマが放送されていたのが
ちょうど子どもたちが小学生の頃で
あのドラマの中で、かつては天才ピアニストだった三上博史さんが
覚せい剤の中毒になっていきます。
薬を求めて這い回る姿は、もはや人間ではない別の何かです。
単に良いか悪いかの問題ではなく、かつては人生をかけて愛した女性をも
苦しめ、傷つけるその姿は、どうしようもなく悲しいし惨めです。
しかし、彼は女性(鈴木保奈美)の献身的な介護で
回復を始めますが、結局ハッピーエンドにはならずとそういうドラマでした。
そういうドラマを見ても、これはいいとか悪いとかいうようなことは言いません。
私は別に道徳を教えるために映画やドラマを観ているわけではないし
どんな崇高で立派な人間も、反対にどれほど残酷で凶悪な人間も
または羊の皮をかぶった狼的な人間たちも
現実社会には存在するのだから、あるものは全てあるがままです。
けれど「悲しいね」とか「切ないよね」とか
自分の感情の部分で感じたことは言っていました。
野島さんのドラマは、性や暴力や、人間の醜悪さを誇張して描くことが多いので
結構非難もされますが、反面人間の切なさや美しさを描いている点では
独特のセンスがあってその美しい部分が、私のツボなので、平気で子どもにも見せていました。
この後に観た「未成年」や「ひとつ屋根の下」「世紀末の詩」などは
ドラマの中で流れたカーペンターズやチューリップの美しいメロディとともに
子どもたちの記憶に残っていったようです。
高校時代の子どもの本棚に、野島ドラマのノベライズ「薔薇のない花屋」を見つけて
ちょっと嬉しかったことを思い出しました。
ちなみにダンナのギャンブル依存症のことを
子どもたちに話したのは、司法書士さんに任意整理を受任していただけて
それまでの借金が減額できることが確定した時でしたが
「お母さんの話わかる?」と聞いたら
「ああ、『闇金ウシジマくん』とか『カバチタレ』とか読んだけん
大体のことは分かる」という答えが返ってきました。
小学校に上がるくらいまでは「この世界は愛と善意にあふれた素晴らしいものだ」
という小説やドラマや映画を見せるのはよいことだと思います。
けれど6才を過ぎたくらいからは、子どもは親には分からないところで
様々な現実に直面します。
自分の能力や家庭環境に対する自覚も出てきて、優越感や劣等感も芽生えます。
様々な個性を持った子どもたちが集団生活する中で、理由のない悪意にさらされることも
いじめたり、いじめられたりという簡単に解決できない葛藤に巻き込まれることも起こります。
早い子では、小学校の高学年くらいから性への興味も芽生えます。
まだまだ未成熟な脳と、手持ちの不十分な知識で
いろいろな問題に向かっていかなければなりません。
私は、そこで大切なことは「他者を傷つけない」ことと「自分を守る」ことだと
思っていました。今何かと話題になるイスラム教ではないけれど
親が子どもに何よりも守ってほしいことは
極言すれば「殺すな、盗むな、犯すな」
つまり他者の命や財産や尊厳を傷つけないということ
それだけ分かればいいやくらいに思っていました。
「他者を傷つけない」ためには、他人の悲しみを理解できる感性が必要です。
これは例えば「思いやりが大切」とか「他の人には親切にする」とかいう
具体性のない抽象的なことばで分かってもらうのは、すごく難しいのです。
子どもにこの感性を育てるのに、一番大切なのはやはり親の接し方だと思います。
「お友だちには優しくしようね」と言葉で教えても
親が子どもに対して色んな場面で優しく接してなかったら
子どもには何が「優しさ」なのかが分かりません。
親が子どもの気持ちにどれだけ寄り添ってやれるかで
子どもの他者との関わり方も大きく違ってきます。
ただ、子どもの気持ちに共感する、寄り添うことと
無条件に甘やかす、迎合することとの線引きはすごく難しいところで
ここで親自身の価値観やスキルが大きく問われます。
一方「自分を守る」ためには、人間や社会を理解できるたくさんの知識と情報が必要です。
「なぜ相手はこんなことを言うのか」「世の中にはなぜこんなことが起きるのか」と
人間や社会を分析できる力や、それに対応できる能力が必要になります。
学校の勉強だけでは、身につけることができないものが山ほどあります。
本や映画やドラマを観る中で身につけることができるのが客観性と共感力です。
フィクションではあっても、そこには「自分と同じだ」と感じることができる喜びや悩み
悲しみや苦しみや怒りの感情の具体的な姿があります。
それに共感すると同時に「それではどうしたらいいのか」という解決の方法を
シュミレーションすることもできます。
だから良いことも悪いことも、知っていて無駄になることはほとんどないと私は思います。
私と子どもたちの共通の話題は、昔も今も
最近読んだ本や映画、音楽の話です。
病気の話は特に進展がない時などはあっさりしたものです。
でもお互い微妙に趣味が違うと分かっているから、無理に勧めたりはしません。
「これが面白かった」という、主に情報交換です。
子どもたちは特にお勧めのものは勝手に置いていきます。
けれど私が「猿の惑星」や伊藤計劃氏について熱く語っても
「また始まった」という感じで半笑いです。
小さい頃に見た「フランケンシュタイン」は、まだトラウマになっているようで
「生首が出てきて怖かった」と恨まれていたりもします。
でもそれでいいのだと思っています。親の好みに同化する必要はありません。
子どもが最近仕事がらみで「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」というSFの
話題を目にする機会が多いのだそうです。
「どっかで聞いたと思ったら、お母さんが昔面白いって言ったやつや」
もし私がいなくなって何年も経った後でも
そうして私が話したことの断片が、子どもたちの心によみがえってくれることがあるなら
私が手渡したかったことの何割かは伝わったのではないかと思えるのです。
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子供って、沢山の出会いから色んな刺激を受けて成長するものだと思うんですよね。
だから、お互いの個性を認め合える親子関係でいたいなぁと思っています。
子育ても、親子関係も、夫婦もでしょうけど、これが正解はない、ケースバイケースなのだと思います。二つの円がぴったり重なるようなものではないと。けれど、一部分どこかで重なる部分があれば共有できるものがある、そういうものだろうと、試行錯誤を続けて、子育てを終えた今、感じています。
You tubeで「Nスタ」の特集拝見しました。Ricoさんの、ポジティブな生き方は、今のような、誰もがリスクを怖がる時代だからこそ、きっとお子様方のよいお手本になるのではないかと思えます。
偉そうなことを書いていますが、自分は相変わらずニート満喫で、引きこもり生活です。子どもに「お母さんには、もう好きなことをやってほしい」と言われたのはグッときましたが、それがよくなかったかもwww
インフルエンザが流行っています。どうかお体に気をつけて!