僕の大学ではちょうど卒業式シーズンで、僕の友人たちも幾人か来るというので、家に遊びに来ても恥ずかしくないように、ということで家の掃除をしていました。
僕は日本の中ではきれい好きではない方だと思いますが、平均的イギリス人と比べると、掃除や料理といった家事の能力は、低く見積もっても二倍はあると思います(笑)
冗談はさておいて、「ブルー・バレンタイン」という映画があるそうなんですが、そのレビューをポッドキャストで聴いていたら、それが大そう興味深い夫婦の話なのです。
それと落語の「厩火事」という話を比較して何やら思うところがあったので、それを書こうかなと思った次第です。
「ブルー・バレンタイン」というのは話によると、エリート看護婦(一定程度の医療行為が可能な正看護婦)の奥さんと、塗装屋のご主人の話だそうです。
奥さんがエリートで、ご主人がそうでもない。今で言うところの格差婚ということになるでしょうか。
エリートの奥さんは職場でエリートの男性たちを見て、家に帰るとエリートではないマイペースなご主人を見ることになります。すなわち、否が応でも比較をしてしまう。
徐々に冷めていく奥さん。娘がひとりいるのがせめてもの救い。しかし、もう夫婦仲も限界と、こういう話なんですって。
他方、落語、特に古典落語なんてものを見てみますと、何せ江戸時代、明治時代以来の価値観が残ってますので、非常に保守的なわけです。
理想的な夫婦像として「稼ぎ男に繰り女」なんていう表現がよく出てきます。男が働き、女が家計をやりくるというわけです。
「厩火事」のなかでは、男が家にいて、女が働いているという設定です。
昨今では珍しくないかもしれませんが、それでも主夫のドラマが出来てしまうくらいで、やはりまだまだ日本ではなじみがないものです。
それはそうとして、「厩火事」では「兄さん」と呼ばれる仲人が出てきて、女に男と別れるよう忠告します。男は遊んでだらしないから駄目だ、というのです。
で、実際、話のオチでもそういう男の性格が出てしまうのですが、興味深いのは、「厩火事」のなかの女性と、ブルー・バレンタインのなかの女性の性格が相当違う、という点なのです。
この違いはすなわち、女性にとっての男性とはいかなる存在か、という問題です。
「厩火事」のなかの女性にとっての男性は、いわば女性自身をはかる尺度です。男性が女性のことを好きでいてくれさえいれば良い。男性が自分を評価してくれれば、満足するというわけです。
つまり、この女性はパートナーの男性を社会から切り離して自己と結びつけているわけです。
ところが聞くところ、ブルー・バレンタインでは、そうでじゃない。
女性は男性を社会のなかにおいて考えます。この人は社会的にあまりにも評価されていない。格好悪い。だらしない。
この女性にとって、男性は自己の評価基準というよりも、対等なパートナー足り得るのかという、より客観的な基準を踏まえた評価対象になっています。
奥さん自身が自らを測る尺度(つまり社会的成功という基準)を持っているのです。
どちらの女性もいるでしょうし、一人の女性の中にふたつの基準がある場合あるでしょう。
いずれにせよ、男性は女性にとって自分がどのような位置付けになっているのか、正確に認識しないと困ったことになるのかなあ、そういう時代なのかなあ、と僕は思いました。
僕は日本の中ではきれい好きではない方だと思いますが、平均的イギリス人と比べると、掃除や料理といった家事の能力は、低く見積もっても二倍はあると思います(笑)
冗談はさておいて、「ブルー・バレンタイン」という映画があるそうなんですが、そのレビューをポッドキャストで聴いていたら、それが大そう興味深い夫婦の話なのです。
それと落語の「厩火事」という話を比較して何やら思うところがあったので、それを書こうかなと思った次第です。
「ブルー・バレンタイン」というのは話によると、エリート看護婦(一定程度の医療行為が可能な正看護婦)の奥さんと、塗装屋のご主人の話だそうです。
奥さんがエリートで、ご主人がそうでもない。今で言うところの格差婚ということになるでしょうか。
エリートの奥さんは職場でエリートの男性たちを見て、家に帰るとエリートではないマイペースなご主人を見ることになります。すなわち、否が応でも比較をしてしまう。
徐々に冷めていく奥さん。娘がひとりいるのがせめてもの救い。しかし、もう夫婦仲も限界と、こういう話なんですって。
他方、落語、特に古典落語なんてものを見てみますと、何せ江戸時代、明治時代以来の価値観が残ってますので、非常に保守的なわけです。
理想的な夫婦像として「稼ぎ男に繰り女」なんていう表現がよく出てきます。男が働き、女が家計をやりくるというわけです。
「厩火事」のなかでは、男が家にいて、女が働いているという設定です。
昨今では珍しくないかもしれませんが、それでも主夫のドラマが出来てしまうくらいで、やはりまだまだ日本ではなじみがないものです。
それはそうとして、「厩火事」では「兄さん」と呼ばれる仲人が出てきて、女に男と別れるよう忠告します。男は遊んでだらしないから駄目だ、というのです。
で、実際、話のオチでもそういう男の性格が出てしまうのですが、興味深いのは、「厩火事」のなかの女性と、ブルー・バレンタインのなかの女性の性格が相当違う、という点なのです。
この違いはすなわち、女性にとっての男性とはいかなる存在か、という問題です。
「厩火事」のなかの女性にとっての男性は、いわば女性自身をはかる尺度です。男性が女性のことを好きでいてくれさえいれば良い。男性が自分を評価してくれれば、満足するというわけです。
つまり、この女性はパートナーの男性を社会から切り離して自己と結びつけているわけです。
ところが聞くところ、ブルー・バレンタインでは、そうでじゃない。
女性は男性を社会のなかにおいて考えます。この人は社会的にあまりにも評価されていない。格好悪い。だらしない。
この女性にとって、男性は自己の評価基準というよりも、対等なパートナー足り得るのかという、より客観的な基準を踏まえた評価対象になっています。
奥さん自身が自らを測る尺度(つまり社会的成功という基準)を持っているのです。
どちらの女性もいるでしょうし、一人の女性の中にふたつの基準がある場合あるでしょう。
いずれにせよ、男性は女性にとって自分がどのような位置付けになっているのか、正確に認識しないと困ったことになるのかなあ、そういう時代なのかなあ、と僕は思いました。