それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

ブルー・バレンタインと厩火事:女性にとって男性とは

2011-01-24 12:34:41 | コラム的な何か
僕の大学ではちょうど卒業式シーズンで、僕の友人たちも幾人か来るというので、家に遊びに来ても恥ずかしくないように、ということで家の掃除をしていました。

僕は日本の中ではきれい好きではない方だと思いますが、平均的イギリス人と比べると、掃除や料理といった家事の能力は、低く見積もっても二倍はあると思います(笑)

冗談はさておいて、「ブルー・バレンタイン」という映画があるそうなんですが、そのレビューをポッドキャストで聴いていたら、それが大そう興味深い夫婦の話なのです。

それと落語の「厩火事」という話を比較して何やら思うところがあったので、それを書こうかなと思った次第です。



「ブルー・バレンタイン」というのは話によると、エリート看護婦(一定程度の医療行為が可能な正看護婦)の奥さんと、塗装屋のご主人の話だそうです。

奥さんがエリートで、ご主人がそうでもない。今で言うところの格差婚ということになるでしょうか。

エリートの奥さんは職場でエリートの男性たちを見て、家に帰るとエリートではないマイペースなご主人を見ることになります。すなわち、否が応でも比較をしてしまう。

徐々に冷めていく奥さん。娘がひとりいるのがせめてもの救い。しかし、もう夫婦仲も限界と、こういう話なんですって。



他方、落語、特に古典落語なんてものを見てみますと、何せ江戸時代、明治時代以来の価値観が残ってますので、非常に保守的なわけです。

理想的な夫婦像として「稼ぎ男に繰り女」なんていう表現がよく出てきます。男が働き、女が家計をやりくるというわけです。

「厩火事」のなかでは、男が家にいて、女が働いているという設定です。

昨今では珍しくないかもしれませんが、それでも主夫のドラマが出来てしまうくらいで、やはりまだまだ日本ではなじみがないものです。

それはそうとして、「厩火事」では「兄さん」と呼ばれる仲人が出てきて、女に男と別れるよう忠告します。男は遊んでだらしないから駄目だ、というのです。

で、実際、話のオチでもそういう男の性格が出てしまうのですが、興味深いのは、「厩火事」のなかの女性と、ブルー・バレンタインのなかの女性の性格が相当違う、という点なのです。



この違いはすなわち、女性にとっての男性とはいかなる存在か、という問題です。

「厩火事」のなかの女性にとっての男性は、いわば女性自身をはかる尺度です。男性が女性のことを好きでいてくれさえいれば良い。男性が自分を評価してくれれば、満足するというわけです。

つまり、この女性はパートナーの男性を社会から切り離して自己と結びつけているわけです。

ところが聞くところ、ブルー・バレンタインでは、そうでじゃない。

女性は男性を社会のなかにおいて考えます。この人は社会的にあまりにも評価されていない。格好悪い。だらしない。

この女性にとって、男性は自己の評価基準というよりも、対等なパートナー足り得るのかという、より客観的な基準を踏まえた評価対象になっています。

奥さん自身が自らを測る尺度(つまり社会的成功という基準)を持っているのです。

どちらの女性もいるでしょうし、一人の女性の中にふたつの基準がある場合あるでしょう。

いずれにせよ、男性は女性にとって自分がどのような位置付けになっているのか、正確に認識しないと困ったことになるのかなあ、そういう時代なのかなあ、と僕は思いました。

落語「鼠穴」:兄のふたつの人格

2011-01-23 09:11:47 | コラム的な何か
僕は全然落語詳しくないんですが、「鼠穴」という落語がすごく好きです。

研究の休み時間に、色々な落語家によるこの「鼠穴」を聴いています。

「鼠穴」というのは解釈の幅があって、それが噺家によって違うので、素人にもなかなか面白いのです。



1、話の筋

筋を言いますと(最初から最後まで書きますよ)、酒や博打で身上をつぶした男が、江戸へ兄を頼ってきます。兄は父親が残した田畑の半分を売ったお金で商売を起こし、成功していました。

男は兄のもとで働かせてくれと頼みますが、兄はそれなら自分で商売起こしてみろ、と勧めます。

兄は元手としてお金を与え、男は喜び勇んで外に出ますが、中身を確かめると、それがたったの3文ばかり。男はひどく兄を恨みますが、負けん気を起こして懸命に働き、たったの3文から、最終的には蔵を3つ所有するまでになります。

3文をもらってから10年経って、ついに男は兄の元に3文(そして、さらに3両。噺家によっては5両)を返しにきます。

兄はそこで3文しか与えなかった理由を弟に伝えます。

酒や遊びを覚えたものが、大金を持ったら、すぐにそれを使ってしまう。ということで、その習慣から男を抜けさせるために3文だけ与えた、というのです。

そうでしたか、と泣いて感謝する男。久し振りの兄弟の再会を祝して、ふたりは酒を酌み交わし、男は兄の家に泊まることにします。

しかし、話はここで終わりません。

風が強い日で火事には気をつけろ、特に蔵のなかに火が入らないようにしておけ。鼠穴から火が入ると危険だから、ちゃんと塞いでおけと番頭に言いつけておいた男。

夜中起こされると、どうも自分の家の方が火事。急いで帰ったものの、結局、蔵が3つとも焼けてしまいます。

男は商売を再開しますが、うまくいかない。奉公人も去り、妻も床に伏せてしまいます。

そこで兄のところまで、娘とともにお金を借りに行く男。

ところが兄は、そんな男に大金を貸すことはできないと言います。ケンカになって帰る男と娘ですが、娘はそんな男をかわいそうに思い、自分を吉原に売って元手にしてくれと言います。

娘の勧めに従い、本当に吉原で女郎になる前に金を返す、と言って娘を身売りさせます。ところが、そこで得た金をすぐにスリに泥棒されてしまいます。

困り果てた男は首をくくろうとしたところで、兄に起こされ、火事からのくだりが夢であったと知ります。



2、解釈の余地:兄の人格

解釈の余地が出てくるのが、この兄の性格や考えです。

まずこの兄は本当に弟を再起させるために3文しか与えなかったのでしょうか。

それとも単にケチだったのか。

あるいは、ある種の市場至上主義者だったのか。エコノミック・アニマルだったのか。

最初に弟がきたとき、彼に大金を貸しても返ってこないことは明白。

夢とはいえ、次に弟がきたときにも、やはりその投資先としての値踏みをやめません(50両貸してくれという弟に対して、1両程度しか貸せないと主張)。

投資先としての価値に相応しいだけの金額を貸そうとする兄。


また話しのなかで兄はずっと独身のままでした。

なぜ独身を貫いたのか。

また兄はどれほど孤独だったのでしょうか。

その兄にとって弟とはどういう存在だったのか。


噺家は、この複雑な「兄」という登場人物をやはり何らかのかたちで解釈します。

かなり斬新だなと思ったのが、立川志の輔の解釈で、彼は兄が3文を弟に渡した時のことを回想するときに、兄に「自分はお前にいくら渡すべきか迷いに迷った。気がついたら3文渡していた」と言わせています。

つまり志の輔は、兄に内在するふたつの人格の葛藤を演じているのであります。

「兄」という人間の兄弟の人格。それはつまり非常に孤独なはずの存在。

他方、「兄」の商人としての人格。投資先を検討するうえで、きわめてシビアな存在。


これまで、この話に関しては、兄はケチかケチではないか、という議論がなされてきました。

兄はもちろんある意味ケチなのですが、人間そんなに単純ではない、という気がしてきます。

兄自身がふたつの人格のなかで葛藤していたのではないか、という解釈は非常に説得力があります。



3、もしあれが夢ではなかったらどうか

もし私たち自身が兄の立場だったらどうするでしょうか。

主人公の男は、夢のなかで、兄は火事の後も大金を貸すことはない、と考えていました。それは商人としての合理性がある、しかしそれでは情が無い、鬼だと。

では、もし夢ではなかったとしたら?兄はどうするでしょうか。

それはもちろん分かりませんが、ここで兄のなかのふたつの人格はいよいよ葛藤することになるのかもしれません。

孤独を貫いてきた兄。弟との関係を重んじる肉親としての人格がはたして「商人としての人格」に今さら勝てるでしょうか?

重要なのが、主人公の男が夢の中で金を借りに行く時に連れて行く娘です。

噺家によっては、兄が男の娘(つまり姪っ子)を可愛がることを強調しますが、男はこの娘によって、兄の肉親としての人格に訴えかけることになったかもしれません。

夢では負けてしまいますが、現実だったとしたらどうでしょうか?

仮に、肉親としての人格を兄が放棄したとしたら、兄はいよいよ孤独になったでしょう。しかし、もはや自分のアイデンティティは商人なのだから、肉親としての人格がそれに勝ってしまうとアイデンティティの崩壊に至ってしまうでしょう。

結局、男の夢がきわめて現実的なのかなと思うのです。

買い物と、リサイクルごみとの戦い

2011-01-22 00:16:12 | イギリス生活事件簿
夜、11時半頃、僕が研究していると突如ノックする音が。

ドアを開けるとクリスが立っていた。

「買い物行く?いや、寝るんだったらいいんだけど・・・。」

いつものように彼は照れくさそうに言う。

「いや、行くよ。五分待って。」

僕はすぐにその誘いに乗ることにした。買物はできるときにするのが鉄則。

おそらく、クリスのところには1週間くらいの間、例のかわいい彼女が来ていたから、きっと食料も底を尽きたのだろう。

夜中のスーパーはひと気もほとんどなかった。

晴れていて、空に星が出ている。僕のフラットの玄関あたりから空を見上げると、星が沢山見えるのだ。僕が星座に詳しかった飽きずに見ていただろうに。




実は先週も買い物に行った。本題はここからだ。

その時の様子と今回ではずいぶん違う。

まず人数は二倍の四人だった。クリス、クリスの彼女、ジョー、僕。

そして、我々には別の課題があった。リサイクルのゴミを捨てることだ。

僕らのフラットには長いこと、リサイクルごみが溜まっていて、僕はそのことで若干イライラしていた。

クリスマス休暇直前の盛大なパーティで、大量のリサイクルごみが出たのだが、クリスマス休暇に入り、突如ゴミの日が変則的になったかと思うと、僕はリサイクルごみを出すのに失敗。

一般ゴミに混ぜるなど、姑息な手段を使うも、あまりに大量なため追いつかなかった。

実は、僕はゴミの日を間違えただけではなかった。

隣近所の人が突如、外で話しかけてきて、「君のところのゴミは、プラスチックと色々混ざっているから、持っていかれないんだよ」というアドバイスをくれていた。

どうも、何らかの分別が必要らしいということは分かっていたのだが、それまで特別なことは必要なかったし、ゴミの日に気がいっていて、そのことをすっかり忘れていたのだ。

それで先週の金曜日(通常、水曜日)、遂にスケジュールの変更システムを把握し(手紙が来ていて、それをよくよく読んでみた)、出したのだが、どうも分別でひっかかったらしく、収集車が来ていたのに、持って行ってくれなかった。

僕は日本語で「なんでだ!馬鹿か!イギリス、おかしいんじゃないの!」とか叫んでいたのだが、もうこれは限界と思い(そして、なぜ僕だけがゴミを管理しているのかという疑問もなくはない)、ネットで分別方法を調べてから、すかさずクリスに相談。

クリス、さらにジョーともゴミの分別がどうも必要であることを確認し、今あるゴミはクリスの提案でスーパーのリサイクルボックスに入れることにした。

このときのジョーのリアクションが面白い。

クリス「○○(僕の名前)がね、ネット調べたら、リサイクルごみ分別しなきゃいけないみたいなんだよ。」

ジョー「だから、持って行ってくれなかったのね。それじゃあ、いつまでも持っていかれないわけだ、あははははは。」

ジョー、あははは、じゃないぞ。しかし、この人のおおらかさ、マイペースさは、僕にとってはちょうどいい。

そんな、ゴミなんかのことでイライラする必要ないでしょ、という気持ちになれる。



そんなこんなで、例の4人でスーパーに買い物ついでにゴミを捨てに行ったわけだ。

結構な量だったので、僕らの達成感と団結感はひとしお。帰ってから、みんなでそれでもまだ残っていたゴミ(車に乗らなかった)を分別して、有意義な一日は終わったのである。

一体、いつリサイクルが必要になったのか。変更の手紙が来ていたのか。あるいは、今までビンがあんまり出ていなかったから問題なかったのか。

いずれにせよ、次は24日。これですべてが分かる。いや、今度は持って行ってもらいますから。

夜ヨガ始めました

2011-01-21 10:36:23 | 日記
2週間前くらいから、自分なりにトレーニングを始めましたょ。

論文書いていて自分の体が、ちょっと弱り過ぎていることに危機感を覚えたのであります。

徐々に体形が良くなってきたのですが、寝つきがなかなか良くなくて。

それで最近、遂に徹底的に夜ヨガを始めましたょ。

寝る前、30分くらい、リラックスするまでヨガをし続けるのです。

木のポーズ、猫のポーズ、鋤のポーズ、英雄のポーズなどなど、色々やります。

口から火を吐けるようになるまで続けようと思います(ヨガ・フレイム・・・古ッ)。

これがすごくいいんです。すごく効く。すっきり寝られます。

そういえば、僕の父は昔から、夜とか、鋤のポーズをずっとやっていて。

僕もそろそろいい歳なんでしょうね。デスクワークばっかりですから、ちょっと色々工夫しなくちゃとは思っているんですが。

スピッツの「スピカ」と、Nokkoの「人魚」を勝手に解説

2011-01-20 10:15:14 | コラム的な何か
最近はまっている曲がふたつありましてね。

ひとつが、スピッツの「スピカ」で、もうひとつがNokkoの「人魚」(作曲は超大御所の筒美京平)です。

両方とも90年代を代表する楽曲であります。最近、80年代ブームが終わったら、90年代ブームが来るのかなあなどと安直に考えている今日この頃であります。



スピッツの「スピカ」は椎名林檎がカバーしたバージョンもすごく良いのですが、オリジナルもやはり負けてはいません。

Nokkoの「人魚」にいたっては、やたらカバーされています。安室、Bonnie Pink、中孝介などなど。そのなかでも、秀逸なカバーが「羊毛とおはな」(ギターリストと女性ボーカルのデュオ)によるカバーであります。



それはいいのですが、このふたつの楽曲に共通なワンポイントのコード進行の話を書きます。

両方の楽曲のポイントは、言ってしまえば、歌詞とメロディの奇跡的な組み合わせでありまして、コードはそれほど重要ではありません。

でも、コードとメロディの関係は気になります。

音楽を知っている人にとっては、なんてことはない話で、知らない人にはどうでも良い話です。

要するに、誰にとっても需要の無い話なのですが、コード進行初学者には重要です。



1、スピカのサビ

まず、「スピカ」のサビのコード進行を見てみましょう。

サビ

| Dからベースが一音ずつ下がる | その続き | Gからベースが一音ずつ下がる |その続き| | A A/G | F#m7 D/F# | Em7 | C A/C# |

| Dからベースが一音ずつ下がる | その続き | Gからベースが一音ずつ下がる |その続き| | A A/G | F#m7 F#7 | G G/A | D |

まず、ひたすらベース音が下がる展開です。

その上に、ストレートに

「ファ# ソ ラ ド#(上) レ(上)」(コードはおよそD)

「ソ ラ シ ファ#(上) ソ(上)」(コードはおよそG)

「レ ミミミ ファ# ソ ラ」(コードはおよそA→D)

と、コード進行ほぼそのままのメロディがたたみかけるように乗ります。音列とコード進行が異常に一致しているので、聴き手に対して非常に素直な印象を与えます。

下から一気に上に飛んでいくので、男性の歌い手は結構きつい。しかし、この素直で一気に上昇する音列が、この曲の良さなのです。

スピッツのヒット曲には、コードに逆らわない異常にナチュラルで、一気に上昇する爽快なメロディが乗る傾向にあるような気がします。

そのなかで、最高のアクセントになっているのが、最後の「A→A/G→F#m7→F#7」。歌詞で言うと、「幸せは途切れ~ながらも~」の部分です。

しゃくりあげるようなメロディと、このF#7(IIIのメジャーコード、つまり副Vにあたる借用和音)の組み合わせに、ファンはイチコロです。



2、Nokkoの人魚:Aメロの最後

Nokkoの「人魚」で一番印象に残るのが、Aメロの最後。歌詞で言うと「その笑顔をしぐさを愛しくて」です。

Aメロのコード進行を見てみましょう。

| C Em/B Am7 | FM7 G | Dm7 | G |

| C E7 | Am7 D7 | C Dm7 | F F/G C|

素直できれいな進行です。前半はメロディも基本的にこの進行に対して、どストレートな展開です。

問題の後半、メロディは「ミ ファ ソー ミ ファ ミ ソ#ー ミ ファ ミ」と、CからE7(IIIのメジャーコード、つまり副Vにあたる借用和音)への展開がぴったり。非常に分かりやすい、90年代っぽいパターンです。

つまり、ここでもスピカと同じ借用和音で、曲にアクセントをつけています。

普通に曲を書くと、IIIのメジャーコードは頻出すぎてアクセントにならないような気がしますが、ここまできれいに展開すると、たかだかIIIのメジャーコードでも、強いアクセントになってしまうというマジック。

これがふたつの曲の共通点であります。



3、まとめ

要するに、どっちも非常に分かりやすいくらいきれいなコード進行の上に、きわめて素直な展開のメロディが乗るという、いかにも「90年代Jポップ」という感じの構造になっていました。

この素直さは、しかしタイムレス。時代関係になく美しいと感じます。