それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

2011-01-04 23:13:30 | 日記
この3か月のあいだ、ずっと取り組んでいた章の最後の一文に、遂にたどり着いた。

それは長い長い海泳ぎのようであった。

夕日が何度も海に落ち、広い海原を赤く染め、

朝日が何度も水平線から、のぼって行った。

僕は何度も疲れて、仰向けになって空を眺めた。

背中の裏に深く深く海が存在しているのを感じながら。

自分はずっと海面と空の間にいたのだ。

魚は海のなかで泳ぎ回り、鳥は空中を魚の群れを探しながら飛び回る。

しかし、どちらも僕の傍には来なかった。僕はずっとひとりで泳いでいた。

ただ、流木と一度すれ違った。

けれども、僕は流木ではない。僕は意志を持ち泳ぐ人間であった。

遠目に見れば、僕など流木のようにしか見えなかったであろう。

ただ流されているように見えたであろう。

しかし、僕は泳いでいた。流されながらも、日々岸に近づいていた。

夜の闇は僕を恐ろしいほど孤独にし、晴れた日の太陽は僕を恐ろしいほど勇気づけ、

何度も自分を見失いながら、僕は古くて新しい自分と出会った。

岸には誰もいなかった。しかし、泳ぎ切った僕はすでに泳ぐ前の僕ではない。

岸には確かに誰かがいる。僕の知っていて知らない誰かが。

何のために海で泳ぐのか、と問う必要はないだろう。

答えは体全身で感じている疲労そのものだから。