僕は全然落語詳しくないんですが、「鼠穴」という落語がすごく好きです。
研究の休み時間に、色々な落語家によるこの「鼠穴」を聴いています。
「鼠穴」というのは解釈の幅があって、それが噺家によって違うので、素人にもなかなか面白いのです。
1、話の筋
筋を言いますと(最初から最後まで書きますよ)、酒や博打で身上をつぶした男が、江戸へ兄を頼ってきます。兄は父親が残した田畑の半分を売ったお金で商売を起こし、成功していました。
男は兄のもとで働かせてくれと頼みますが、兄はそれなら自分で商売起こしてみろ、と勧めます。
兄は元手としてお金を与え、男は喜び勇んで外に出ますが、中身を確かめると、それがたったの3文ばかり。男はひどく兄を恨みますが、負けん気を起こして懸命に働き、たったの3文から、最終的には蔵を3つ所有するまでになります。
3文をもらってから10年経って、ついに男は兄の元に3文(そして、さらに3両。噺家によっては5両)を返しにきます。
兄はそこで3文しか与えなかった理由を弟に伝えます。
酒や遊びを覚えたものが、大金を持ったら、すぐにそれを使ってしまう。ということで、その習慣から男を抜けさせるために3文だけ与えた、というのです。
そうでしたか、と泣いて感謝する男。久し振りの兄弟の再会を祝して、ふたりは酒を酌み交わし、男は兄の家に泊まることにします。
しかし、話はここで終わりません。
風が強い日で火事には気をつけろ、特に蔵のなかに火が入らないようにしておけ。鼠穴から火が入ると危険だから、ちゃんと塞いでおけと番頭に言いつけておいた男。
夜中起こされると、どうも自分の家の方が火事。急いで帰ったものの、結局、蔵が3つとも焼けてしまいます。
男は商売を再開しますが、うまくいかない。奉公人も去り、妻も床に伏せてしまいます。
そこで兄のところまで、娘とともにお金を借りに行く男。
ところが兄は、そんな男に大金を貸すことはできないと言います。ケンカになって帰る男と娘ですが、娘はそんな男をかわいそうに思い、自分を吉原に売って元手にしてくれと言います。
娘の勧めに従い、本当に吉原で女郎になる前に金を返す、と言って娘を身売りさせます。ところが、そこで得た金をすぐにスリに泥棒されてしまいます。
困り果てた男は首をくくろうとしたところで、兄に起こされ、火事からのくだりが夢であったと知ります。
2、解釈の余地:兄の人格
解釈の余地が出てくるのが、この兄の性格や考えです。
まずこの兄は本当に弟を再起させるために3文しか与えなかったのでしょうか。
それとも単にケチだったのか。
あるいは、ある種の市場至上主義者だったのか。エコノミック・アニマルだったのか。
最初に弟がきたとき、彼に大金を貸しても返ってこないことは明白。
夢とはいえ、次に弟がきたときにも、やはりその投資先としての値踏みをやめません(50両貸してくれという弟に対して、1両程度しか貸せないと主張)。
投資先としての価値に相応しいだけの金額を貸そうとする兄。
また話しのなかで兄はずっと独身のままでした。
なぜ独身を貫いたのか。
また兄はどれほど孤独だったのでしょうか。
その兄にとって弟とはどういう存在だったのか。
噺家は、この複雑な「兄」という登場人物をやはり何らかのかたちで解釈します。
かなり斬新だなと思ったのが、立川志の輔の解釈で、彼は兄が3文を弟に渡した時のことを回想するときに、兄に「自分はお前にいくら渡すべきか迷いに迷った。気がついたら3文渡していた」と言わせています。
つまり志の輔は、兄に内在するふたつの人格の葛藤を演じているのであります。
「兄」という人間の兄弟の人格。それはつまり非常に孤独なはずの存在。
他方、「兄」の商人としての人格。投資先を検討するうえで、きわめてシビアな存在。
これまで、この話に関しては、兄はケチかケチではないか、という議論がなされてきました。
兄はもちろんある意味ケチなのですが、人間そんなに単純ではない、という気がしてきます。
兄自身がふたつの人格のなかで葛藤していたのではないか、という解釈は非常に説得力があります。
3、もしあれが夢ではなかったらどうか
もし私たち自身が兄の立場だったらどうするでしょうか。
主人公の男は、夢のなかで、兄は火事の後も大金を貸すことはない、と考えていました。それは商人としての合理性がある、しかしそれでは情が無い、鬼だと。
では、もし夢ではなかったとしたら?兄はどうするでしょうか。
それはもちろん分かりませんが、ここで兄のなかのふたつの人格はいよいよ葛藤することになるのかもしれません。
孤独を貫いてきた兄。弟との関係を重んじる肉親としての人格がはたして「商人としての人格」に今さら勝てるでしょうか?
重要なのが、主人公の男が夢の中で金を借りに行く時に連れて行く娘です。
噺家によっては、兄が男の娘(つまり姪っ子)を可愛がることを強調しますが、男はこの娘によって、兄の肉親としての人格に訴えかけることになったかもしれません。
夢では負けてしまいますが、現実だったとしたらどうでしょうか?
仮に、肉親としての人格を兄が放棄したとしたら、兄はいよいよ孤独になったでしょう。しかし、もはや自分のアイデンティティは商人なのだから、肉親としての人格がそれに勝ってしまうとアイデンティティの崩壊に至ってしまうでしょう。
結局、男の夢がきわめて現実的なのかなと思うのです。
研究の休み時間に、色々な落語家によるこの「鼠穴」を聴いています。
「鼠穴」というのは解釈の幅があって、それが噺家によって違うので、素人にもなかなか面白いのです。
1、話の筋
筋を言いますと(最初から最後まで書きますよ)、酒や博打で身上をつぶした男が、江戸へ兄を頼ってきます。兄は父親が残した田畑の半分を売ったお金で商売を起こし、成功していました。
男は兄のもとで働かせてくれと頼みますが、兄はそれなら自分で商売起こしてみろ、と勧めます。
兄は元手としてお金を与え、男は喜び勇んで外に出ますが、中身を確かめると、それがたったの3文ばかり。男はひどく兄を恨みますが、負けん気を起こして懸命に働き、たったの3文から、最終的には蔵を3つ所有するまでになります。
3文をもらってから10年経って、ついに男は兄の元に3文(そして、さらに3両。噺家によっては5両)を返しにきます。
兄はそこで3文しか与えなかった理由を弟に伝えます。
酒や遊びを覚えたものが、大金を持ったら、すぐにそれを使ってしまう。ということで、その習慣から男を抜けさせるために3文だけ与えた、というのです。
そうでしたか、と泣いて感謝する男。久し振りの兄弟の再会を祝して、ふたりは酒を酌み交わし、男は兄の家に泊まることにします。
しかし、話はここで終わりません。
風が強い日で火事には気をつけろ、特に蔵のなかに火が入らないようにしておけ。鼠穴から火が入ると危険だから、ちゃんと塞いでおけと番頭に言いつけておいた男。
夜中起こされると、どうも自分の家の方が火事。急いで帰ったものの、結局、蔵が3つとも焼けてしまいます。
男は商売を再開しますが、うまくいかない。奉公人も去り、妻も床に伏せてしまいます。
そこで兄のところまで、娘とともにお金を借りに行く男。
ところが兄は、そんな男に大金を貸すことはできないと言います。ケンカになって帰る男と娘ですが、娘はそんな男をかわいそうに思い、自分を吉原に売って元手にしてくれと言います。
娘の勧めに従い、本当に吉原で女郎になる前に金を返す、と言って娘を身売りさせます。ところが、そこで得た金をすぐにスリに泥棒されてしまいます。
困り果てた男は首をくくろうとしたところで、兄に起こされ、火事からのくだりが夢であったと知ります。
2、解釈の余地:兄の人格
解釈の余地が出てくるのが、この兄の性格や考えです。
まずこの兄は本当に弟を再起させるために3文しか与えなかったのでしょうか。
それとも単にケチだったのか。
あるいは、ある種の市場至上主義者だったのか。エコノミック・アニマルだったのか。
最初に弟がきたとき、彼に大金を貸しても返ってこないことは明白。
夢とはいえ、次に弟がきたときにも、やはりその投資先としての値踏みをやめません(50両貸してくれという弟に対して、1両程度しか貸せないと主張)。
投資先としての価値に相応しいだけの金額を貸そうとする兄。
また話しのなかで兄はずっと独身のままでした。
なぜ独身を貫いたのか。
また兄はどれほど孤独だったのでしょうか。
その兄にとって弟とはどういう存在だったのか。
噺家は、この複雑な「兄」という登場人物をやはり何らかのかたちで解釈します。
かなり斬新だなと思ったのが、立川志の輔の解釈で、彼は兄が3文を弟に渡した時のことを回想するときに、兄に「自分はお前にいくら渡すべきか迷いに迷った。気がついたら3文渡していた」と言わせています。
つまり志の輔は、兄に内在するふたつの人格の葛藤を演じているのであります。
「兄」という人間の兄弟の人格。それはつまり非常に孤独なはずの存在。
他方、「兄」の商人としての人格。投資先を検討するうえで、きわめてシビアな存在。
これまで、この話に関しては、兄はケチかケチではないか、という議論がなされてきました。
兄はもちろんある意味ケチなのですが、人間そんなに単純ではない、という気がしてきます。
兄自身がふたつの人格のなかで葛藤していたのではないか、という解釈は非常に説得力があります。
3、もしあれが夢ではなかったらどうか
もし私たち自身が兄の立場だったらどうするでしょうか。
主人公の男は、夢のなかで、兄は火事の後も大金を貸すことはない、と考えていました。それは商人としての合理性がある、しかしそれでは情が無い、鬼だと。
では、もし夢ではなかったとしたら?兄はどうするでしょうか。
それはもちろん分かりませんが、ここで兄のなかのふたつの人格はいよいよ葛藤することになるのかもしれません。
孤独を貫いてきた兄。弟との関係を重んじる肉親としての人格がはたして「商人としての人格」に今さら勝てるでしょうか?
重要なのが、主人公の男が夢の中で金を借りに行く時に連れて行く娘です。
噺家によっては、兄が男の娘(つまり姪っ子)を可愛がることを強調しますが、男はこの娘によって、兄の肉親としての人格に訴えかけることになったかもしれません。
夢では負けてしまいますが、現実だったとしたらどうでしょうか?
仮に、肉親としての人格を兄が放棄したとしたら、兄はいよいよ孤独になったでしょう。しかし、もはや自分のアイデンティティは商人なのだから、肉親としての人格がそれに勝ってしまうとアイデンティティの崩壊に至ってしまうでしょう。
結局、男の夢がきわめて現実的なのかなと思うのです。
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