夏と言えば納涼。僕はこわい話が苦手です。
でも最近、日本のラジオ番組(インターネット)でこわい話を不意打ち的に聴いてしまった。
それはこわいので、ここには書かない。
その話のポイントが面白かったので、その話を少し。
オカルトものというのは、「ウソだろ」とか「いつものアレか」というところで、恐怖が抑えられる。
ぶっちゃけた話、オカルトの語り手や担い手(=ある種の能力者)は、ある種のフィクション感を担っている。つまり「ああ、いつものあの人ね」「まあ、ネタでしょ」的なイメージ。
ところが、その人物の語る世界観をウソであるかのように描きながら(科学的にこう説明できるとか、あるいは、みんな似非だと言っているとか)、その人物が不意に日常で出会ってしまった恐怖の話をすると、聴き手は自分の日常の世界と、ホラーの世界がくっついてしまって、そこに恐怖が生まれる。
図解すると、、
能力者の世界=ウソ→恐怖=ウソ / 能力者の日常=ホント→恐怖=ホント・・・聴き手の日常
さらにそこで見えてしまった世界が「ちら見」だと、聴き手は「外側」を想像してしまい、恐怖は永続するのだ!(ちら見がよりセクシーなのと同じ仕組みなのか)
こわっ・・・!
自分にとってその代表例が中島らもの『ガダラの豚』。前半で新興宗教、超能力などでオカルトをさんざん否定してしておいて、後半オカルトの雪崩が!しかも、話がグローバル。こわっ・・・!
でも最近、日本のラジオ番組(インターネット)でこわい話を不意打ち的に聴いてしまった。
それはこわいので、ここには書かない。
その話のポイントが面白かったので、その話を少し。
オカルトものというのは、「ウソだろ」とか「いつものアレか」というところで、恐怖が抑えられる。
ぶっちゃけた話、オカルトの語り手や担い手(=ある種の能力者)は、ある種のフィクション感を担っている。つまり「ああ、いつものあの人ね」「まあ、ネタでしょ」的なイメージ。
ところが、その人物の語る世界観をウソであるかのように描きながら(科学的にこう説明できるとか、あるいは、みんな似非だと言っているとか)、その人物が不意に日常で出会ってしまった恐怖の話をすると、聴き手は自分の日常の世界と、ホラーの世界がくっついてしまって、そこに恐怖が生まれる。
図解すると、、
能力者の世界=ウソ→恐怖=ウソ / 能力者の日常=ホント→恐怖=ホント・・・聴き手の日常
さらにそこで見えてしまった世界が「ちら見」だと、聴き手は「外側」を想像してしまい、恐怖は永続するのだ!(ちら見がよりセクシーなのと同じ仕組みなのか)
こわっ・・・!
自分にとってその代表例が中島らもの『ガダラの豚』。前半で新興宗教、超能力などでオカルトをさんざん否定してしておいて、後半オカルトの雪崩が!しかも、話がグローバル。こわっ・・・!
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