それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

こわい話について

2010-07-13 19:35:20 | 日記
夏と言えば納涼。僕はこわい話が苦手です。

でも最近、日本のラジオ番組(インターネット)でこわい話を不意打ち的に聴いてしまった。

それはこわいので、ここには書かない。

その話のポイントが面白かったので、その話を少し。

オカルトものというのは、「ウソだろ」とか「いつものアレか」というところで、恐怖が抑えられる。

ぶっちゃけた話、オカルトの語り手や担い手(=ある種の能力者)は、ある種のフィクション感を担っている。つまり「ああ、いつものあの人ね」「まあ、ネタでしょ」的なイメージ。

ところが、その人物の語る世界観をウソであるかのように描きながら(科学的にこう説明できるとか、あるいは、みんな似非だと言っているとか)、その人物が不意に日常で出会ってしまった恐怖の話をすると、聴き手は自分の日常の世界と、ホラーの世界がくっついてしまって、そこに恐怖が生まれる。

図解すると、、

能力者の世界=ウソ→恐怖=ウソ / 能力者の日常=ホント→恐怖=ホント・・・聴き手の日常

さらにそこで見えてしまった世界が「ちら見」だと、聴き手は「外側」を想像してしまい、恐怖は永続するのだ!(ちら見がよりセクシーなのと同じ仕組みなのか)

こわっ・・・!

自分にとってその代表例が中島らもの『ガダラの豚』。前半で新興宗教、超能力などでオカルトをさんざん否定してしておいて、後半オカルトの雪崩が!しかも、話がグローバル。こわっ・・・!

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