それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

スープついて

2013-08-17 11:19:36 | 日記
長々とスープに関する作り話を書き続けてしまった。

下手な作り話を書いた当初の目的は、教育と支配の密接な関係が教育現場だけでなく、様々な人間関係のなかで常に存在している、つまり偏在的な現象である、ということを言うことだった。

そして例によって、人間の動きとセリフだけでなく、説明台詞という一番やってはいけない書き方で、その趣旨を強調してしまった。

どうしても私がそうしてしまうのは、自分が社会科学の論文ばかりを書いているため、人間の動きの描写だけでそれを表現する術が未発達だったことに起因している。



ところがそうした当初の目的とは別の思考が話を長々と続けさせることになってしまった。

それは私の食い意地である。

スープはわき役程度のものだったのに、途中からスープのことを書きたいがために物語を書き、あげくに北海道の話まですることになってしまった。

私はそこから一層この物語の質が悪化したことを理解しているし、そもそも読者の皆さんがそんな質などということを問題にしていない親切な方々であることも知っている。



スープはコース料理で言えば2番手になることが多く、ものによってメインにもなる。

しかし、スープはかなり特別なジャンルの料理であると私は思う。

体調が悪い時、食欲がない時こそスープは好まれる。

そして、スープは簡素な割に手間がかなりかかるものが少なくない。

つまり、スープは作り手の思いやりが非常にはっきりと反映される典型的な料理であると私には思われたのである。

また、イギリスでの3年間の生活のなかで、また、それ以前のカナダでの留学、さらには韓国旅行のなかでも、スープはことあるごとに登場し、私の思い出の核となっている。

そういう私の個人的な思いも、この下手くそな作り話を延長させた原因であった。



こんな後書き風の日記を書くのもおこがましいのではあるが、あまりにも私に文才が無いため、付け足すように自分の感情を書かずにはいられなかった。

大変失礼しました。

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