それでも僕はテレビを見る

社会‐人間‐テレビ‐間主観的構造

研究の日記

2013-08-30 07:55:16 | 日記
いつだって壁に直面している。

新しいものを書くということは、つまりそういうことだとは思う。

けれど、相当のエネルギーを使って上手くいかないときはとても辛いものだ。

ある一般向けの論稿を彼女に読んでもらったところ、

「長いし、意味が分からなかった」と素直に言ってくれた。

その通りだったが、私は深く傷ついた。

その傷つき方は読者諸氏が思うよりもずっと深く。

で、私はすぐに寝ることにした。もう研究もやりたくなくて。

私はここ数か月の私を否定されたような気持ちになって、落ち込んだ。

私はとてもナイーブで、研究をちょっとでもダメだと言われると、もう右も左も分からなくなってしまう。

もちろん、相手が研究を分かっていない場合でも、そいつに原因があるという場合が少なくないので、結構冷静でいられるはずなのだが、

彼女のコメントはおそらく自分のその研究の微妙な自信と不安の崩れやすいバランスに、当たり所悪く命中したのだろう。

私が一生懸命研究している題材は無意味なのだろうか?

自問したが一向に答えが出ない。

客観的に言って、それを言葉にできているのか。それはそもそも無かったことにすべきなのか。

イギリスの師匠の言葉、「研究者は孤独なのよ・・・」を思い出す。

決めるのは自分。言葉を紡ぐのも自分。語るべきかどうかは、つまるところ自分しか分からない。



けれど、私の良い所が少しでもあるとすれば、負けず嫌いということだ。

明け方、目覚める時に全く違うアイディアが出てきた。

書き方も本気で一般向けにする。

難しい枠組みも使わない。

何を念頭に置いているのか明確にする。

それで、すぐに午前中に新しい短いものを書いた。

しかし、書いてみて直観的にまだそれがダメであることは分かった。

でも、私はすぐにそれを彼女に送った。



夜、日本の師匠のツイッターを読んでいて、私は自分が新たに書いたことの意味を発見した。

そこですかさず午前中書いた文章を直した。

そして、師匠に「先生のツイッターを読みました」とラブレターさながら、その文章を送った。

実はその前に書いたものも送ってはいた。けれど、彼女のコメントを受けて、すぐに破棄してくれるよう頼んだ。

朝、先生から新しいものへのコメントが来ていた。

とにかく読んでもらえたのが嬉しかった。

コメントはさすが見事なもので、私は私が書いていることに意味があるということをもう一度信じることができた。

完成度が問題ではないのだ。

ひとつでも僅かでも面白いと思ってくれるかが問題なのだ。

あとは速度だ。

私はさらに速くなれるだろうか?

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